2009年12月14日
いままで生きてこられたことに感謝する(道元)
いままで生きてこられたことに感謝する(道元)
年末になると、色々年間の事件簿が報道される。
こんなことが有ったか、こんな事件が起こった等々、
世の移り変わりは、速いもので、ついつい忘れています。
でも、それが人間を前へ向わせる、
道元禅師の言葉を集めた本を読むと次に言葉があった。
「人の死するのち、さらに生とならずや」
要は、「死んだら終わり」の意味です。
人は生まれたからには、必ず死が来ます。それは、明日か、40年後かもしれません。でも生死は背中合わせ、天が決めた時間しか自分にはありません。
ですから、人間は生まれたこと、そしてこの世を去るまで、何時も自然の摂理(法則、寿命)の流れの中に在ります。偉大な生命によって、生かされている。だから生きることを楽しむことが大事と思います。
一日に感謝しする。人生無常と思うか、人生が豊かな時間かは、一人ひとりの生き方そのものと思います。
冒頭の言葉、「生きてこられたことに感謝」忘れてはいけない、重く重要な心の支えではないでしょうか。良き出会い(夫婦、親子、親族、師友、・・)、人とこそパワーの源、原点にように思います。
*参考資料:境野勝悟著「道元『禅』の言葉」
年末になると、色々年間の事件簿が報道される。
こんなことが有ったか、こんな事件が起こった等々、
世の移り変わりは、速いもので、ついつい忘れています。
でも、それが人間を前へ向わせる、
道元禅師の言葉を集めた本を読むと次に言葉があった。
「人の死するのち、さらに生とならずや」
要は、「死んだら終わり」の意味です。
人は生まれたからには、必ず死が来ます。それは、明日か、40年後かもしれません。でも生死は背中合わせ、天が決めた時間しか自分にはありません。
ですから、人間は生まれたこと、そしてこの世を去るまで、何時も自然の摂理(法則、寿命)の流れの中に在ります。偉大な生命によって、生かされている。だから生きることを楽しむことが大事と思います。
一日に感謝しする。人生無常と思うか、人生が豊かな時間かは、一人ひとりの生き方そのものと思います。
冒頭の言葉、「生きてこられたことに感謝」忘れてはいけない、重く重要な心の支えではないでしょうか。良き出会い(夫婦、親子、親族、師友、・・)、人とこそパワーの源、原点にように思います。
*参考資料:境野勝悟著「道元『禅』の言葉」
2009年06月14日
「夢、優しさ、若さ、前向き」の心を持つ人の話を聞く
「夢、優しさ、若さ、前向き」の心を持つ人の話を聞く
~第17回アフリカ子どもの日(ユニセフ熊本支部)~
心の優しい人の話を聞くと、こちらも心のやさしくなる。
心がいらいらしている人の話を聞くと、自分の心もいらいらしてくる。
あなたは素直な人だといわれると、自然に素直な人になってくる。
おまえはダメな奴だと、怒鳴られていると、いつの間にか、心も体もダメになってくる。
若い人と話をしていると若返る。
老人の愚痴ばかり聞いていると、自分も愚痴っぽくなってしまう。
境野勝悟著「道元『禅』の言葉」に次の解説があった。
(本文)
道元は、自分が幸福に生きるために必要な智恵の第一番に、「聞」をあげている。いくら経済的に恵まれていても、いつもいやなことばかり聞いていては、心が晴れない。逆に、それほど経済的に恵まれていなくても、常にやさしく思いやりのある言葉を耳にしていれば、心は秋空のように澄んで明るくなる。
現代は、歴史上、こんなに豊かであったときはなかった。にもかかわらず、あまりにも浮薄な自己中心的の考えばかりを耳にして、混乱と絶望の世界になりつつある。いまこそ、各自が宇宙一家的な広く大きい考えを話題にしなくてはならない。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
7月4日、5日に熊本市で、「第17回アフリカ子どもの日」のイベントがある。今回、一つの分科会の担当をしているのですが、6月6日に高校生のボランチィアたちとのミーチィングがあった、100名を越える高校生(一部中学生)が集い、アフリカのことを知り、自分たちができることをやりたいと、目を輝かせ、色々な思いを語り合った。



道元の言葉ではないですが、私自身、ワクワクし、若者に何を伝えないといけないか、責任を感じながら、高校生たちと打合せをしました。
夢を語り、愛情を持って接し、相手を思いやること、前向きに考える若さ、
日々使う時間を、そんな前向きな話、自分を豊かにするような人の話を聞くと、気分も好転し、良き相乗効果が現れるかもしれません。
道元の<修智恵>の教示、「聞」はとても大切なことのように思います。
*参考資料:境野勝悟著「道元『禅』の言葉」
~第17回アフリカ子どもの日(ユニセフ熊本支部)~
心の優しい人の話を聞くと、こちらも心のやさしくなる。
心がいらいらしている人の話を聞くと、自分の心もいらいらしてくる。
あなたは素直な人だといわれると、自然に素直な人になってくる。
おまえはダメな奴だと、怒鳴られていると、いつの間にか、心も体もダメになってくる。
若い人と話をしていると若返る。
老人の愚痴ばかり聞いていると、自分も愚痴っぽくなってしまう。
境野勝悟著「道元『禅』の言葉」に次の解説があった。
(本文)
道元は、自分が幸福に生きるために必要な智恵の第一番に、「聞」をあげている。いくら経済的に恵まれていても、いつもいやなことばかり聞いていては、心が晴れない。逆に、それほど経済的に恵まれていなくても、常にやさしく思いやりのある言葉を耳にしていれば、心は秋空のように澄んで明るくなる。
現代は、歴史上、こんなに豊かであったときはなかった。にもかかわらず、あまりにも浮薄な自己中心的の考えばかりを耳にして、混乱と絶望の世界になりつつある。いまこそ、各自が宇宙一家的な広く大きい考えを話題にしなくてはならない。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
7月4日、5日に熊本市で、「第17回アフリカ子どもの日」のイベントがある。今回、一つの分科会の担当をしているのですが、6月6日に高校生のボランチィアたちとのミーチィングがあった、100名を越える高校生(一部中学生)が集い、アフリカのことを知り、自分たちができることをやりたいと、目を輝かせ、色々な思いを語り合った。
道元の言葉ではないですが、私自身、ワクワクし、若者に何を伝えないといけないか、責任を感じながら、高校生たちと打合せをしました。
夢を語り、愛情を持って接し、相手を思いやること、前向きに考える若さ、
日々使う時間を、そんな前向きな話、自分を豊かにするような人の話を聞くと、気分も好転し、良き相乗効果が現れるかもしれません。
道元の<修智恵>の教示、「聞」はとても大切なことのように思います。
*参考資料:境野勝悟著「道元『禅』の言葉」
2009年06月08日
「どちらでも同じではないか」と考える(朝三暮四)
「どちらでも同じではないか」と考える(朝三暮四)
ある猿回しが、たくさんの猿を飼っていた。かれは、ある朝、猿たちに話をかけた。
「お前たちのえさに、トチの実をあげたい。朝三つ、夕方四つ、配りたいと思うが、どうか」
これを聞いた猿たちは、配り方が面白くないと、ギャーギャー騒いだ。そこで猿回しは、
「ああ、わかった、わかった、静かにしなさい。では、朝四つ、夕方は三つやろうじゃないか」
と、いったところ、猿たちは大喜びした。
一日にもらうトチの実は同じであることに気づかないので、朝三暮四と、朝四暮三のどちらかを「いい判断」として、一つをつまみあげようとするから、紛争が起こってしまう。 どちらでもよいではないか、どちらでも同じではないか。と考えれば、争いごとは起きない。(中略)
(引用、「道元『禅』の言葉」)
目先のことに捉われてばかりいると、長期のことを考えることができない。長い戦力と日々の行動を、両方視野に入れて物事考えると、案外、どちらでも良いこと、どちらでも変わらないことが、多いことに気づく。
猿たちは、朝食べるトチの実をたくさんもらった方が、得な気になっただと思います。
・21世紀の世界
世界の国々が、化石燃料に集中する時代、第二次世界大戦の悲劇が起こりました。
21世紀は、再生エネルギーの時代と言われます。自国で賄える自然エネルギー、再生エネルギーをどう確保するか、国家存亡の岐路がもう来てるように思います。
*参考資料:道元「禅」の言葉
ある猿回しが、たくさんの猿を飼っていた。かれは、ある朝、猿たちに話をかけた。
「お前たちのえさに、トチの実をあげたい。朝三つ、夕方四つ、配りたいと思うが、どうか」
これを聞いた猿たちは、配り方が面白くないと、ギャーギャー騒いだ。そこで猿回しは、
「ああ、わかった、わかった、静かにしなさい。では、朝四つ、夕方は三つやろうじゃないか」
と、いったところ、猿たちは大喜びした。
一日にもらうトチの実は同じであることに気づかないので、朝三暮四と、朝四暮三のどちらかを「いい判断」として、一つをつまみあげようとするから、紛争が起こってしまう。 どちらでもよいではないか、どちらでも同じではないか。と考えれば、争いごとは起きない。(中略)
(引用、「道元『禅』の言葉」)
目先のことに捉われてばかりいると、長期のことを考えることができない。長い戦力と日々の行動を、両方視野に入れて物事考えると、案外、どちらでも良いこと、どちらでも変わらないことが、多いことに気づく。
猿たちは、朝食べるトチの実をたくさんもらった方が、得な気になっただと思います。
・21世紀の世界
世界の国々が、化石燃料に集中する時代、第二次世界大戦の悲劇が起こりました。
21世紀は、再生エネルギーの時代と言われます。自国で賄える自然エネルギー、再生エネルギーをどう確保するか、国家存亡の岐路がもう来てるように思います。
*参考資料:道元「禅」の言葉
2009年06月06日
悪口を言わない、みな同じ空気を吸ってる
悪口を言わない、みな同じ空気を吸ってる
魚は水が枯れれば死ぬしかない。人間は空気が無ければ死ぬしかない。生命は、自然環境を共有している。人間は、社会の中で生きている。自分だけ、私だけ、と威張って他人を思いやるところが無く、まして周りを踏み台にして、自分だけ得することばかり考えていれば、ますます自分の居場所が狭くなり、厳しい天罰が下ると思います。
人に対して、思いやりのない悪口や暴言を吐く。
これくらい罪悪なことはない。
親が子に、子が親に、男が女に、女が男に、男同士、女同士、・・・。
思いやりのない言動をしていると、その人は必ず運から見放され、人生の喜びを得ることができないと思う。
個人主義は、けっして悪いことではないが、それを振り回してばかりいると、対立と孤立を生む。自分ひとりで生きるということは、現実むずかしい。また人間だけで生きていくことも、むずかしいと思う。
人も動物も仲良く、共存してこそ社会・自然が成り立つ。その基となるのは、思いやりではないかと思う。みな同じ空気を吸い、みな同じ水を呑んでいる。限られた資源を、大事に使い生命を維持して行かなければならない。
その思いの基本は、思いやりだと思います。そして社会を安定するには、人間関係を大事すること。色々な場面で、相手を思いやり、悪口は言わない。相手の居ない場所でも、悪口は言わない。悪口は、以外に回り回って、本人に伝わるもの。
みな同じ空気を吸っている。悪口は言わない。
胆に命じておきたい、教示と思います。
*参考資料:境野勝悟訳著「道元『禅』の言葉」
魚は水が枯れれば死ぬしかない。人間は空気が無ければ死ぬしかない。生命は、自然環境を共有している。人間は、社会の中で生きている。自分だけ、私だけ、と威張って他人を思いやるところが無く、まして周りを踏み台にして、自分だけ得することばかり考えていれば、ますます自分の居場所が狭くなり、厳しい天罰が下ると思います。
人に対して、思いやりのない悪口や暴言を吐く。
これくらい罪悪なことはない。
親が子に、子が親に、男が女に、女が男に、男同士、女同士、・・・。
思いやりのない言動をしていると、その人は必ず運から見放され、人生の喜びを得ることができないと思う。
個人主義は、けっして悪いことではないが、それを振り回してばかりいると、対立と孤立を生む。自分ひとりで生きるということは、現実むずかしい。また人間だけで生きていくことも、むずかしいと思う。
人も動物も仲良く、共存してこそ社会・自然が成り立つ。その基となるのは、思いやりではないかと思う。みな同じ空気を吸い、みな同じ水を呑んでいる。限られた資源を、大事に使い生命を維持して行かなければならない。
その思いの基本は、思いやりだと思います。そして社会を安定するには、人間関係を大事すること。色々な場面で、相手を思いやり、悪口は言わない。相手の居ない場所でも、悪口は言わない。悪口は、以外に回り回って、本人に伝わるもの。
みな同じ空気を吸っている。悪口は言わない。
胆に命じておきたい、教示と思います。
*参考資料:境野勝悟訳著「道元『禅』の言葉」
2009年06月04日
公論中でも相手を傷つける言葉は使わない
公論中でも相手を傷つける言葉は使わない
日々の暮らしで、会話の無い生活はありえない。出来事、事件を研修すると、人と人の関わりあいの些細な行き違い、意見の違いが始まりのように思います。その中でも、言葉から受ける印象は、人それぞれ違うことを知っておく必要があります。
先人たちも、言葉の行き違いで苦労したのだろうと思います。道元の教示の末尾に方に、あったのが冒頭の言葉です。
「無益ないい争いほど愚かなことはない」(道元)
(以下、本文より)
お互いが自分の考えを持って、無遠慮に話し合っていると、だんだん興奮して、相手をへこまそうとしたり、きびしく批難したりしたくなる。自分の考えだけを露出して、相手の意見は無視し、自分の考えだけが正しいことだといい争ってしまう。(中略)
言葉は、恐ろしい一面を持つ。おごりたかぶって発言された一言が、たとえどんな軽々しい口調でいわれたにしても、胸をぐさりと突かれ、動けなくなります。(中略)
・・、個人の我意だけを振り回してばかりしていたのでは、幸福で平和な世界は消失する。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
自分はそんな気持ちは無くても、相手の受け取り方では、恨みをかうこともあります。また、相手のためによかれと、色々アドバイスしても、「おせっかい」と受け取られることもあります。人とのお付き合いは、難しいものです。
その行き違い、いざこざの始まりは、ちょっとした言葉から、以外に始まる事が多いように思います。中国故事にもその教示がある。
「人主の逆鱗(げきりん)にふるるなくんば即ちちかし」(韓非子)
人は、他人から触れて欲しくない部分がある。トップもそうだが、ここには触れるなと先輩から言われることはしない方が良い。もし間違って言葉に出した瞬間、「カミナリ」が落ち、最悪、クビになる事もありうるのでご注意を。
韓非子の言葉を解説したものに、次の解説がありました。
「竜という動物は、馴らせば、人が乗れるほどおとなしい。だが、喉の下に直径一尺ほどの鱗(うろこ)が逆さに生えていて、これに触れようものなら、必ず人をかみ殺す」
トップにも(一般の人にも)、この逆鱗がある。それに触れないように話すのが説得の極意だそうだ。それに触れないように心がけることが対人関係の要領なのかもしれません。
*参考資料:境野勝悟訳著「道元『禅』の言葉」
守屋洋訳著「中国古典 一日一話」
<関連ブログ>
・環境共生施設研究所(旧A&E計画設計事務所)
http://aandekyouseiken.otemo-yan.net/
日々の暮らしで、会話の無い生活はありえない。出来事、事件を研修すると、人と人の関わりあいの些細な行き違い、意見の違いが始まりのように思います。その中でも、言葉から受ける印象は、人それぞれ違うことを知っておく必要があります。
先人たちも、言葉の行き違いで苦労したのだろうと思います。道元の教示の末尾に方に、あったのが冒頭の言葉です。
「無益ないい争いほど愚かなことはない」(道元)
(以下、本文より)
お互いが自分の考えを持って、無遠慮に話し合っていると、だんだん興奮して、相手をへこまそうとしたり、きびしく批難したりしたくなる。自分の考えだけを露出して、相手の意見は無視し、自分の考えだけが正しいことだといい争ってしまう。(中略)
言葉は、恐ろしい一面を持つ。おごりたかぶって発言された一言が、たとえどんな軽々しい口調でいわれたにしても、胸をぐさりと突かれ、動けなくなります。(中略)
・・、個人の我意だけを振り回してばかりしていたのでは、幸福で平和な世界は消失する。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
自分はそんな気持ちは無くても、相手の受け取り方では、恨みをかうこともあります。また、相手のためによかれと、色々アドバイスしても、「おせっかい」と受け取られることもあります。人とのお付き合いは、難しいものです。
その行き違い、いざこざの始まりは、ちょっとした言葉から、以外に始まる事が多いように思います。中国故事にもその教示がある。
「人主の逆鱗(げきりん)にふるるなくんば即ちちかし」(韓非子)
人は、他人から触れて欲しくない部分がある。トップもそうだが、ここには触れるなと先輩から言われることはしない方が良い。もし間違って言葉に出した瞬間、「カミナリ」が落ち、最悪、クビになる事もありうるのでご注意を。
韓非子の言葉を解説したものに、次の解説がありました。
「竜という動物は、馴らせば、人が乗れるほどおとなしい。だが、喉の下に直径一尺ほどの鱗(うろこ)が逆さに生えていて、これに触れようものなら、必ず人をかみ殺す」
トップにも(一般の人にも)、この逆鱗がある。それに触れないように話すのが説得の極意だそうだ。それに触れないように心がけることが対人関係の要領なのかもしれません。
*参考資料:境野勝悟訳著「道元『禅』の言葉」
守屋洋訳著「中国古典 一日一話」
<関連ブログ>
・環境共生施設研究所(旧A&E計画設計事務所)
http://aandekyouseiken.otemo-yan.net/
2009年06月03日
「こうなりたい人」の真似をする
「こうなりたい人」の真似をする
点数主義、マニュアル化、成否を判断する材料・手法ばかりが、横行してしている。教育もまた同じように、急げ、早くの成果主義になっているのではないでしょうか。
人は目標(理想)をもつ事で、発憤し、勉強に励むようになります。しかし、点数ばかりで人間の評価がなされるわけではありません。
教育者を目指す学生が、「集団レイプ事件」を起こし、日本の教育界が大揺れに揺れています。
安定収入だけを目指す、知識詰め込み教育でなく、人間形成「人格」教育にもっと力を入れるべきと思う人が増えているように感じます。
道元の教示を解説した本に、次に言葉がありました。
(本文)
人生にとっては、点数よりも、もっと大切なある。それは、豊かで、明るく、寛大でやさしく、時には強い心を持つことではないのか。そういう自立的な精神を自分のものにしていたなら、その心を持った人(道元は「正師」といっている)のそばで生活をせよ。
そして、正師に点数などつけてもらわんでいい。一つに器からもう一つの器に水を移すように、正師の心をそっくりそのままいただくことだ。
そうなると、自分が正師の師なのか、正師が自分の師なのかさえ区別がつかず、師と一体となる。(中略)
京都教育大学のリーダーたちは、「正師」と言える人物がどれだけ居るのでしょうか?
それは、歴史が証明するしかないのですが、目標とする人物の傍(そば)で生活することの意味は、「孟母三遷」でもその地に行く意味が書かれています。
松下村塾と現代の教育の違いは、最近考えるのですが、リーダーの生きかたそのものが教育なのではないと思っています。
*参考資料:道元「禅」の言葉
点数主義、マニュアル化、成否を判断する材料・手法ばかりが、横行してしている。教育もまた同じように、急げ、早くの成果主義になっているのではないでしょうか。
人は目標(理想)をもつ事で、発憤し、勉強に励むようになります。しかし、点数ばかりで人間の評価がなされるわけではありません。
教育者を目指す学生が、「集団レイプ事件」を起こし、日本の教育界が大揺れに揺れています。
安定収入だけを目指す、知識詰め込み教育でなく、人間形成「人格」教育にもっと力を入れるべきと思う人が増えているように感じます。
道元の教示を解説した本に、次に言葉がありました。
(本文)
人生にとっては、点数よりも、もっと大切なある。それは、豊かで、明るく、寛大でやさしく、時には強い心を持つことではないのか。そういう自立的な精神を自分のものにしていたなら、その心を持った人(道元は「正師」といっている)のそばで生活をせよ。
そして、正師に点数などつけてもらわんでいい。一つに器からもう一つの器に水を移すように、正師の心をそっくりそのままいただくことだ。
そうなると、自分が正師の師なのか、正師が自分の師なのかさえ区別がつかず、師と一体となる。(中略)
京都教育大学のリーダーたちは、「正師」と言える人物がどれだけ居るのでしょうか?
それは、歴史が証明するしかないのですが、目標とする人物の傍(そば)で生活することの意味は、「孟母三遷」でもその地に行く意味が書かれています。
松下村塾と現代の教育の違いは、最近考えるのですが、リーダーの生きかたそのものが教育なのではないと思っています。
*参考資料:道元「禅」の言葉
2009年05月25日
早く学んだ事は、早く忘れる ~マイペースが大事~
早く学んだ事は、早く忘れる ~マイペースが大事~
教育の問題は、何時の世も起こる問題ですが、特に現代は、「急げ、早く」の教育理論が、主流のようです。
道元の教示を解説した本に、次の一節がありました。
(本文)
人間の教育というものも、目的ばかりを高くかかげ、できるだけ能率的に早く目的を達成するやり方が、本当にいいのであろうか。まったくのところ、どこへ行っても「早く、早く」ばかりで、たまには「のんびり落ちついて」という言葉があってもよさそうだろう。「知らず知らず、いつの間にか身についていた」、これが、本物の教育だ。「早く」学んだことは「早く」忘れる。ゆっくり、しかも、長い間、道友や正師と交際すべきなのだ。頭につけるのではない。しっかりと「身につける」のである。
禅語に「以心伝心」がある。何の言葉がなくても、悟った師の心は、親しく顔を合わせるだけで、伝わっていくということだ。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
教育は、しっかりと「身につける」のである。
大事な理念と思います。私も、ついつい、早く、早くを口にしてしまいます。
長い目で、教育を考えるゆとりを持ちたいと思います。
*参考資料:「道元『禅』の言葉」
教育の問題は、何時の世も起こる問題ですが、特に現代は、「急げ、早く」の教育理論が、主流のようです。
道元の教示を解説した本に、次の一節がありました。
(本文)
人間の教育というものも、目的ばかりを高くかかげ、できるだけ能率的に早く目的を達成するやり方が、本当にいいのであろうか。まったくのところ、どこへ行っても「早く、早く」ばかりで、たまには「のんびり落ちついて」という言葉があってもよさそうだろう。「知らず知らず、いつの間にか身についていた」、これが、本物の教育だ。「早く」学んだことは「早く」忘れる。ゆっくり、しかも、長い間、道友や正師と交際すべきなのだ。頭につけるのではない。しっかりと「身につける」のである。
禅語に「以心伝心」がある。何の言葉がなくても、悟った師の心は、親しく顔を合わせるだけで、伝わっていくということだ。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
教育は、しっかりと「身につける」のである。
大事な理念と思います。私も、ついつい、早く、早くを口にしてしまいます。
長い目で、教育を考えるゆとりを持ちたいと思います。
*参考資料:「道元『禅』の言葉」
2009年05月23日
「努力すれば報われる」わけではない
「努力すれば報われる」わけではない
青年には志を持てと教示する教師たちの日々の仕事を検証する人たちは、あまり居ないと思う。それは、どんなに賢明に教えても、十人十色の子どもたち、自分の理解を超えた行動、思ってもみない期待はずれ、日々起こると思います。
若いころは、なかなかそれが分からない、今の時代、早く成果を求めすぎるきらいがある。
「道元『禅』の言葉」に、努力と結果を第三者の視点で書いている部分があります。
(本文転載)
「どうして、こんな結果を出したんだ!」
「ハイ、すみません。みんなで一生懸命努力したんですけど・・・」
「何!? これでも一生懸命努力やったというのか。全ては、結果しだい。努力が足りない。そんなことが分からんのか!」
努力をすれば、いい結果が出る。いい結果が出ないのは、努力が足りないから・・・。そうではないのだ。世の中というものは、努力をしても、いい結果が出ないときもあるし、大して努力をしなくても、いい結果が出るときもある。
「結果自然成」
道元の「空華」の言葉、すべての結果というものは、自然に出てくるものであって、人間の作為とか努力とかに関係しない、と説く。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
すべて自然の仕業と楽観すると人間、努力を忘れます。道元の説く、自然とは自分のできることを全て尽くし、出た結果は「仕方が無い」という意識と思います。
以前にも書いた、五木寛之氏の<他力>の考えに近いものがあると思います。
「人事を尽くすは天命なり」
と、だから結果は問わない。熊本弁の言葉ですが「できたしこ(できたぶんだけ)」で良いのではと思います。
来たした結果を振り返るより、そこへ至る努力の積み重ねに意味があると思います。
要は、結果に「こだわらない」のが大切と思います。
*参考資料:境野勝悟訳編「道元『禅』の言葉」
青年には志を持てと教示する教師たちの日々の仕事を検証する人たちは、あまり居ないと思う。それは、どんなに賢明に教えても、十人十色の子どもたち、自分の理解を超えた行動、思ってもみない期待はずれ、日々起こると思います。
若いころは、なかなかそれが分からない、今の時代、早く成果を求めすぎるきらいがある。
「道元『禅』の言葉」に、努力と結果を第三者の視点で書いている部分があります。
(本文転載)
「どうして、こんな結果を出したんだ!」
「ハイ、すみません。みんなで一生懸命努力したんですけど・・・」
「何!? これでも一生懸命努力やったというのか。全ては、結果しだい。努力が足りない。そんなことが分からんのか!」
努力をすれば、いい結果が出る。いい結果が出ないのは、努力が足りないから・・・。そうではないのだ。世の中というものは、努力をしても、いい結果が出ないときもあるし、大して努力をしなくても、いい結果が出るときもある。
「結果自然成」
道元の「空華」の言葉、すべての結果というものは、自然に出てくるものであって、人間の作為とか努力とかに関係しない、と説く。(中略)
(以上、「道元『禅』の言葉」)
すべて自然の仕業と楽観すると人間、努力を忘れます。道元の説く、自然とは自分のできることを全て尽くし、出た結果は「仕方が無い」という意識と思います。
以前にも書いた、五木寛之氏の<他力>の考えに近いものがあると思います。
「人事を尽くすは天命なり」
と、だから結果は問わない。熊本弁の言葉ですが「できたしこ(できたぶんだけ)」で良いのではと思います。
来たした結果を振り返るより、そこへ至る努力の積み重ねに意味があると思います。
要は、結果に「こだわらない」のが大切と思います。
*参考資料:境野勝悟訳編「道元『禅』の言葉」
2009年05月20日
人の考えなんて知れたもの
人の考えなんて知れたもの
ニュースを見ると社会には、色々な事が起こっている。新型インフルエンザ、事件、事故、不祥事、汚職・賄賂、自然災害、等々、日々世界の各地だけでなく、日本国内でも頻繁に起こっています。
この出来事の根元に、欲望を中心とする自己判断から、二者択一が常に存在します。
「良いか悪いか、損か得か、・・・」
欲望と二者択一の悩みは、古の時代からあり、古代も中世もやはり、人は考え続けたとおもいます。
曹洞宗の創始者、道元もまた悩んだ、中国まで出かけその答えを見つけるために努力した。道元の教示を解説した本に次に言葉があった。
「自己をならふといふは自己をわするるなり」<現成公案>
(本文、解説抜粋)
人間は、朝から晩まで、良いか悪いか、プラスかマイナスか、好きか嫌いか、損か得か、気に入るか気に入らないか、親と子、男と女というように、物事を二つに分けて、頭の中でグルグル考え続けて生きている。
これは、人間の特徴(特権)らしいが、中には考えすぎて病気なってしまう人もいる。
そこで、道元は、「自己を忘れなさい(時には考えるのをやめなさい)」と喝破する。
つまり、「グチュグチュ、グチュグチュの頭の中だけでものを考えて、その深みに入って悩み苦しんでいる自分を、たまには、すっぽりと忘れてみたらどうか」・・・・・と。
世の中のあれこれうるさい考えを、ぽいと飛び越える。自分の我意識を忘れると、自分の中に生きている宇宙の生命が発見できる。人の考えなんて知れたもの。
(以上、「道元『禅』の言葉」)
欲という色メガネを外し、まっさらの心(素心)の帰り、世を眺めてみると、自分は様々な人々に支えられて生きていると、感じる瞬間があります。ただ、また色メガネを直ぐかけて人や物事評価(二者択一、賛否)してしいます。人間の性(さが)であり、日々つきまとう悩みの根元かもしれません。
>自己を忘れなさい(時には考えるのをやめなさい)
時々は、心静かにする時間・場所(寸暇・寸陰)をつくり、欲という色メガネを外し、身の周りを見てみると、とても豊かな気分になれるのかしれません。
*参考資料:境野勝悟訳編「道元『禅』の言葉」
ニュースを見ると社会には、色々な事が起こっている。新型インフルエンザ、事件、事故、不祥事、汚職・賄賂、自然災害、等々、日々世界の各地だけでなく、日本国内でも頻繁に起こっています。
この出来事の根元に、欲望を中心とする自己判断から、二者択一が常に存在します。
「良いか悪いか、損か得か、・・・」
欲望と二者択一の悩みは、古の時代からあり、古代も中世もやはり、人は考え続けたとおもいます。
曹洞宗の創始者、道元もまた悩んだ、中国まで出かけその答えを見つけるために努力した。道元の教示を解説した本に次に言葉があった。
「自己をならふといふは自己をわするるなり」<現成公案>
(本文、解説抜粋)
人間は、朝から晩まで、良いか悪いか、プラスかマイナスか、好きか嫌いか、損か得か、気に入るか気に入らないか、親と子、男と女というように、物事を二つに分けて、頭の中でグルグル考え続けて生きている。
これは、人間の特徴(特権)らしいが、中には考えすぎて病気なってしまう人もいる。
そこで、道元は、「自己を忘れなさい(時には考えるのをやめなさい)」と喝破する。
つまり、「グチュグチュ、グチュグチュの頭の中だけでものを考えて、その深みに入って悩み苦しんでいる自分を、たまには、すっぽりと忘れてみたらどうか」・・・・・と。
世の中のあれこれうるさい考えを、ぽいと飛び越える。自分の我意識を忘れると、自分の中に生きている宇宙の生命が発見できる。人の考えなんて知れたもの。
(以上、「道元『禅』の言葉」)
欲という色メガネを外し、まっさらの心(素心)の帰り、世を眺めてみると、自分は様々な人々に支えられて生きていると、感じる瞬間があります。ただ、また色メガネを直ぐかけて人や物事評価(二者択一、賛否)してしいます。人間の性(さが)であり、日々つきまとう悩みの根元かもしれません。
>自己を忘れなさい(時には考えるのをやめなさい)
時々は、心静かにする時間・場所(寸暇・寸陰)をつくり、欲という色メガネを外し、身の周りを見てみると、とても豊かな気分になれるのかしれません。
*参考資料:境野勝悟訳編「道元『禅』の言葉」
2009年05月19日
気付きはある日突然やってくる
気付きはある日突然やってくる
日々の生活の中で、考え続けても答えがなかなか出ないことが常なのですが、ふとしたことや、全然違う時(場面)で、ハッと気付く(閃く)ことがあります。「そうか! こういうことか」、と気付くと、胸のわだかまりがすーっと消えてしまいます。
道元の言葉に、「翠竹のなかより、発心得道するあり(発菩提心)」なる教示があります。中国唐代の禅僧、香厳和尚がまだ修行中の時、頭脳明晰、勉強熱心で、修行も熱心に務めるが、どうしても悟れない。以下、「道元『禅』の言葉」から抜粋、
(本文)
師から「なんでも頭でわかろうとするから、つかめなんだよ」といわれて、香厳が山のように積み上げられた書籍に火をつけて燃やしてしまった。
香厳は、「もう、俺みたいなものには、とても悟れない。修行をやめよう」と、山を折り、旅に出ることにした。旅の途中尊敬する忠国師の墓を掃除しても気持ちは晴れない、ふと、落ちていた小石を拾って、あたりの竹林へめがけて投げつけた「カチッ、カチッ、カチーン」と、小石が竹に当たる音が響き渡った。
そのとき、ハッと悟った。「わたくしは、竹の響きを聞く耳の働きがあった。外から得た相対的な知識より、もっと大事な宇宙の絶対不動の力があった」と。
(以上、「道元『禅』の言葉」より)
これは、考えに考え抜いた、悩みに悩みぬいた修行僧だから、竹林の音で気付きますが、我々一般庶民は、こうは行きません。ただ、小さな日々の悩みをどう解決するかと言う時のヒントはあるという気がします。
問題が生じたとき、人は周りや関わった社会に責任を転嫁しがちです。しかし、多くの原因を整理して行くと、以外に自分自身に起因があること多いと気付きます。香厳和尚も、悟りが先人たちの残した書物(知識)から得るものと思い込み、もう勉強をします。しかし、心の充実・理解(悟り)には、至りません。
道元の教えを現代に訳すと、「行き詰ったら、考えるのをやめる」とあります。考えても考えても答えが見つからないときは、町(まち)へ出よう、旅へ出よう。竹林への小石の一投ではないですが、気付きとはそういうものなのかもしれません。
*参考資料:道元「禅」の言葉
<関連コミュニティ>
・道元「禅」のことば
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4268176
<オフ会のご案内>
・「宇土・親子論語教室」+2ブログ 読者の集い
http://noguchi.otemo-yan.net/e177931.html
日時:2009年5月30日16時~18時 時熊本交通センターホテル
日々の生活の中で、考え続けても答えがなかなか出ないことが常なのですが、ふとしたことや、全然違う時(場面)で、ハッと気付く(閃く)ことがあります。「そうか! こういうことか」、と気付くと、胸のわだかまりがすーっと消えてしまいます。
道元の言葉に、「翠竹のなかより、発心得道するあり(発菩提心)」なる教示があります。中国唐代の禅僧、香厳和尚がまだ修行中の時、頭脳明晰、勉強熱心で、修行も熱心に務めるが、どうしても悟れない。以下、「道元『禅』の言葉」から抜粋、
(本文)
師から「なんでも頭でわかろうとするから、つかめなんだよ」といわれて、香厳が山のように積み上げられた書籍に火をつけて燃やしてしまった。
香厳は、「もう、俺みたいなものには、とても悟れない。修行をやめよう」と、山を折り、旅に出ることにした。旅の途中尊敬する忠国師の墓を掃除しても気持ちは晴れない、ふと、落ちていた小石を拾って、あたりの竹林へめがけて投げつけた「カチッ、カチッ、カチーン」と、小石が竹に当たる音が響き渡った。
そのとき、ハッと悟った。「わたくしは、竹の響きを聞く耳の働きがあった。外から得た相対的な知識より、もっと大事な宇宙の絶対不動の力があった」と。
(以上、「道元『禅』の言葉」より)
これは、考えに考え抜いた、悩みに悩みぬいた修行僧だから、竹林の音で気付きますが、我々一般庶民は、こうは行きません。ただ、小さな日々の悩みをどう解決するかと言う時のヒントはあるという気がします。
問題が生じたとき、人は周りや関わった社会に責任を転嫁しがちです。しかし、多くの原因を整理して行くと、以外に自分自身に起因があること多いと気付きます。香厳和尚も、悟りが先人たちの残した書物(知識)から得るものと思い込み、もう勉強をします。しかし、心の充実・理解(悟り)には、至りません。
道元の教えを現代に訳すと、「行き詰ったら、考えるのをやめる」とあります。考えても考えても答えが見つからないときは、町(まち)へ出よう、旅へ出よう。竹林への小石の一投ではないですが、気付きとはそういうものなのかもしれません。
*参考資料:道元「禅」の言葉
<関連コミュニティ>
・道元「禅」のことば
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4268176
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日時:2009年5月30日16時~18時 時熊本交通センターホテル
2009年05月11日
まずは「自分」を観察する ~道元~
まずは「自分」を観察する ~道元~
~仏道をならふといふは自己をならふなり~
曹洞宗の創始者の道元の言葉を難しいと言うイメージを持って、なかなか踏み込めずにいました。昨日ふらっとよった書籍店に、『道元「禅」の言葉』なる、私のような全くの初心者にも理解できる言葉で書かれた、解説書を見つけました。
さっそく読み始めた。冒頭の言葉が、「現成公案」と言うことばですが、解説者の境野勝悟氏の言葉をかりてご紹介します。
(本文)
葬式をするのは、お坊さんだけではない。神社の神主さんも、キリスト教の神父さんや牧師さんもする。が、今日でも、仏教の教えにしたがって「仏式」が、ほとんどである。カーンという鐘、ポクポクという木魚の音は、家族を失って悲しみの中にある遺族や参列社の心を安らかにする。私(境野氏)の友人はよく教会へ礼拝に行っていたが、自分の葬式は、山里の小さな尼寺でしたいと、じみじみ言っていた。
仏教といえば、如来様や菩薩様を拝む。もう一つ、葬式をする・・・このように思っている人が多いであろう。が、道元は、こう言っている。
「仏教をならふというは自己をならふなり」
仏教とは、自分を習うこと。自分の生命の中に喜びを発見することであった。
(以上、『道元「禅」の言葉』)
この解説でもよく理解出来ないのですが、まず習うまえに自分自身がどんな人間か、性格は、欲の大小、体力も含め、まずは「自分」を観察することが大事な気がします。自分を観察する、「反省」の意味も含まっていると勝手に解釈すると、
時々立ち止まり、自分を観察・検証・反省をする習慣をつけると良いのかなと思います。
*参考資料:境野勝悟訳著『道元「禅」の言葉』
~仏道をならふといふは自己をならふなり~
曹洞宗の創始者の道元の言葉を難しいと言うイメージを持って、なかなか踏み込めずにいました。昨日ふらっとよった書籍店に、『道元「禅」の言葉』なる、私のような全くの初心者にも理解できる言葉で書かれた、解説書を見つけました。
さっそく読み始めた。冒頭の言葉が、「現成公案」と言うことばですが、解説者の境野勝悟氏の言葉をかりてご紹介します。
(本文)
葬式をするのは、お坊さんだけではない。神社の神主さんも、キリスト教の神父さんや牧師さんもする。が、今日でも、仏教の教えにしたがって「仏式」が、ほとんどである。カーンという鐘、ポクポクという木魚の音は、家族を失って悲しみの中にある遺族や参列社の心を安らかにする。私(境野氏)の友人はよく教会へ礼拝に行っていたが、自分の葬式は、山里の小さな尼寺でしたいと、じみじみ言っていた。
仏教といえば、如来様や菩薩様を拝む。もう一つ、葬式をする・・・このように思っている人が多いであろう。が、道元は、こう言っている。
「仏教をならふというは自己をならふなり」
仏教とは、自分を習うこと。自分の生命の中に喜びを発見することであった。
(以上、『道元「禅」の言葉』)
この解説でもよく理解出来ないのですが、まず習うまえに自分自身がどんな人間か、性格は、欲の大小、体力も含め、まずは「自分」を観察することが大事な気がします。自分を観察する、「反省」の意味も含まっていると勝手に解釈すると、
時々立ち止まり、自分を観察・検証・反省をする習慣をつけると良いのかなと思います。
*参考資料:境野勝悟訳著『道元「禅」の言葉』


