2007年10月29日

思い立ったらその時に、そこが「筍」

思い立ったらその時に、そこが「筍」

誰でも、行動を起す前には、色々思い悩むことと思います。

「思い立ったらそのときに・・・・」

自分は、どこを目指して、どこへ行くのだろうといつも考えるのですが、

先人の日々の生活での、指標とした「菜根譚」を解説した中に、次の一節があります。

「やめようと思ったら、思い立ったその時にやるべきだ。いずれ適当な機会に、など考えていたら、いつまで経ってもやめることが出来ない。
 それはちょうど、息子に嫁をもらったら、全てを任せようと思っていても、いざその時が来ればなかなかそうはできないし、また、坊主になったら一変に悟りが開けるかもしれないと期待をしても、いざその場になると、なかなかそうは行かないようなものである」

また、解説の補足に、「決断にはだれも迷いが多い。利害得失をよく考えた上で「よし、
これだ」と思ったら、あとは迷いを吹っ切る必要がある。」

更に、「君子はしっかりと目を見開き、現実を直視し、一旦こうと決めたら、軽々しく態度を変えてはならない。」と思います。
 
 私は、思い悩み「ここ・・」と思うとき、心が揺れなかったら、直ぐ行動に移すことにしています。ただ、その心の動揺が治まらない間は、考え続け、人と意見を交わし、作戦をなる事にしています。
 この自分の心とのキャッチボールは、日々の精神修養にもなるように思います。

 考え続け、決断することの大切さを、つくづく感じる最近の出来事です。   

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2007年10月23日

志向を、前向きに変える言葉

志向を、前向きに変える言葉

先週購入した、スーザン・ヘイワード編/山川絃矢・亜矢子訳「人生を思い通りに生きる知恵の言葉」(PHP文庫)の一節です。



どうして我々は幸福で、豊かで、健康で、
かつ成功した人生を送れないのだろうか?

実は、いくら情報時代だからといっても、
情報だけでは十分でない。
私たちが必要としているのは、よいアイデアと積極的な思考法だけでもない。
もしそうなら、私たちはみんな子供の時から子馬を持っていただろうし、今頃は夢のような人生を送っていることだろう。

行動こそ、すべての大成功を呼込む鍵だ。
行動こそが結果を生む。
それをどのようにして効果的な行動に移せるかを知っている人の手に渡るまでは、知識は単なる可能性にすぎない。
                  ~アンソニー・ロビンス~



この世に、不屈の精神にまさるものはない。
才能でなない。
才能に恵まれていながら
成功できない人はいくらでも居る。
天才でもない。
報われない天才というのは、
ほとんど決まり文句になっている。
教育だけでもだめだ。
学歴のある
おちこぼれはそこら中にいる。
不屈の精神と決断だけが全能なのだ。
             ~カルビン・クーリッジ~



上記の言葉を読みながら思うことは、

 公の場では語らずに、会議・講演会後や関係ないところで、ウジウジと文句を言ったり、批評したりする人がいかに多いことか。
 情報を持った(識見した)だけで、影で意見を言っている限り、「信頼」を持つ言葉(生き物)にはならない。やはり、しかるところで、精神の緊張状況の在る公の空間で語ることしか、生きた言葉に変ることが出来ないと思います。

 私の尊敬する師である政治評論家の内田健三先生や、現熊本県知事の潮谷義子氏は、大観衆あろうとなかろうと、朗々と思いを語り、質問にたいしても、間を取ることなく、誠実に自分の意見を述べられます。若い頃から、緊張した公の場で、自分の心と語りながら意見を述べて来られた「すごさ」と考えます。

 情報をどう扱うかは、本人の見識によりますが、これを生きた言葉に変え、周囲を動かす「信頼」を得るには、高い志と緊張感のある精神状態から繰り出される、言葉(決断・行動)しかないように思います。有言実行(=知行合一)こそが、信頼をえる唯一の手段なのだと感じています。

 情報をどう料理(決断)し、効果的な言葉(行動)に移せるかを知っている人の手に渡るまでは、「知識は単なる可能性」にすぎないと言う意識を、常に胆に吸えて、人と語って行きたいと思います。
  

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2007年10月20日

学校管理職発言の揺れと「浩然の気」

学校管理職発言の揺れと「浩然の気」

 今夜も中学生の自殺のニュースがテレビで流れていた。学校の管理職が、被害者の家での発言と記者会見での内容が違っていたを報道していたのですが、「どっちが本当」となり、不信感が広がる。
 事実を語ればと言うことと、教育になればと言う両方を常に考えているので、このブレ(振れ)が出るのだとうと思います。

 孟子の一節に「浩然の気」と言う、危機に直面したり、大きな判断したりする時に、公に対して話す、意見交換、会議等で、自分と対話しながら、即答を要求された時にどうこたえるかは、日常から自分の言葉がどう波及するか、させるかを考えているかどうかにかかっていると思います。

・諸橋徹次先生の「浩然の気」の解説

 浩然の気とは、「義」すなわち人間の心の中の正義、「道」すなわち天地の自然の道理、この人情の正しいものと、天地間の自然の道との二つのものを配合してできたもので、この二者は最も大切に保存しなければならぬ。もしわれわれにこの浩然の気が失われると、どこかしらん、飢えたる者のごとく、心に自身がなく、腹に力がなくなってしまう、と説明します。

孟子曰く「浩然の気を養うのに急いではいけない」

 すなわち浩然の気は義と道とを配する。しかも義と言うものは、長い間本人自身が自分の心の中に積み重ね、集め合わせて、そこから自然に生じた内部的な輝きであって、義が外部にあり、それをもってきて、外からおおいかぶせたという、いわばてんぷらの衣のようなものではない。

 われわれがあることを行う。その時行なってはみたが、自分の心に問うてみて、何となく気持ちが「よくない、どこか足りないところがあるような感じがするとせば、その時には浩然の気は飢えている(価値判断ができない)のである。


(私の理解)
 浩然の気とは、出来事や行動に対して、公の場での言動を起こすときに、私利私欲を捨て、神(自分の良心)と語り、判断するときに、心のわだかまりのない状況を言うと考えています。
 自分の地位、名誉、成果、評価等を全く考えず、事業・活動に関わる当事者たち、地域、更には事後の地域社会(次世代)が、より良き方向へ向かうように、発言と行動を常に生活の中で考え続けることと考えています。
 これを表す言葉に、(逃げない)責任と先見性を併せた言動の考え方を「天人合一」の哲学と、私は考えています。(異論は有ろうかと思います)

 リーダーの発言が振れる(ずれる)と、周りみんなが問題解決の収束方向を見誤ってしまうと思います。学校責任者の言動には、日常から「浩然の気」を胆に据えて、発言と行動に努めて欲しいと思います。

 人の価値は、良い時(好調な場合)ではなくて、苦境(危機、敗北)の時の言動に、真の価値が出ると思います。「先見性」「魅力・磁力」「(逃げない)責任」の3要素では、最後の逃げない「責任」こそが大事と、私は考えていますし、その苦境時の発言が人間の本性を表すと感じています。そんな場面でこそ真の生きる学問を経験できるとも思っています。正に陽明学の「事上磨練」の考え方です。このことは、後日詳しくお話をします。

 日常から軽い緊張感と戦略的思考を忘れないで、人の道と義を修養する「浩然の気」の維持向上に努めて生きたいと思います。
  

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2007年10月19日

善行もせず、評判だけを得ようとしてはならない

「善行もせず、評判だけを得ようとしてはならない」(菜根譚)

 信念を曲げてまで人の歓心を買おうとしてはならない。人からは煙たがられても、自分の信念は貫くべきである。
 善行もないのに、評判だけを得ようとしてはならない。それくらいなら、いわれのない非難にされされるほうがまだましだ。
四班の前っ
(解説)
 一見誠実そうに見えるが中身は俗物。世俗に迎合するそんな偽善者のことを、『論語』では、「卿原(きょうげん)」と呼んでいる。孔子はこの種の人間を「卿原ハ徳ノ賊ナリ」といって嫌った。
 孔子だけではない。孟子もまた、「閻然(えんぜん)トシテ世ニ媚ブル者ハ、コレ卿原ナリ」ときびしく批判している。以って非なる者だからであろう。

(感想)
 日本は、思惑社会とよく言われます。評判、批評、噂をとても気にします。私などは、学歴もなく、日々実践と出会いが中心の学問で、他の批評を記する事もなく、興味を中心に人を求めて動いています。
 周りを気にしない分、対話に集中できるのが、良いのかもしれません。一心不乱と言う言葉がありますが、これより一極集中の注意力が「対談」には必要な気がしています。
  

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2007年10月19日

(肥後実学)「肥後の猛婦」シンポジウム

(肥後実学)「肥後の猛婦」シンポジウム
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=2085745

女性の地位向上に貢献「熊本の猛婦たち」(大宅壮一)
~大義を四海に布かんのみ(横井小楠)~

「明治以後、婦人の自覚、独立、地位向上のために勇敢にたたかった婦人闘士の多くは熊本出身である」(大宅壮一「熊本の猛婦たち」『婦人公論』昭和34年2月号)

 50年前に書かれたものですが、その活躍した女性たちを検証すると、幕末の思想家・横井小楠の親族及び、高弟たちに関わる女性たちであることがわかりました。
・横井小楠と熊本の高弟たち
 徳富一敬、竹崎律次郎、矢島源助、長野濬平、内藤泰吉、嘉悦氏房、安場保和、山田武甫、横井左平太、横井大平

 女性たちの活躍の舞台は、教育界、平和運動、女性解放運動、作家活動、禁酒運動、女性民権運動等々、当時としては先見的な活動に関わっていました。一部紹介します。

竹崎順子(矢島家の長女、竹崎律次郎の夫人、教育者)
徳富久子(矢島家の次女、徳富蘇峰・蘆花の母、熊本女学校の創設者、禁酒運動家)
横井つせ子(矢島家の三女、横井小楠夫人)
横井玉子(横井左平太の妻、女子美術大学の創設者。教育者)
矢島楫子(矢島家の四女、禁酒、廃娼の婦人矯風会を創立。ワシントン軍縮会議
     に出席、平和の1万人署名を手渡すなど、国際的な女性解放、平和運動家)
海老名みや子(横井小楠・つせ子の長女、キリスト教連合婦人会会長。社会事業家)
湯浅初子(徳富蘇峰・蘆花の姉、社会運動家)
徳富愛子(徳富蘆花婦人、蘆花と作家活動(共作)「蘆花全集」)
久布白落実(徳富蘇峰、蘆花の姪。公娼制度の廃止、婦人参政権獲得に尽くし、
     売春防止法制定に貢献。社会運動家)
嘉悦孝子(横井小楠の高弟・嘉悦氏房の長女。嘉悦学園を設立。教育家)
河口愛子(小石川高等女学校、文華女子高校を設立。教育家)
高群逸枝(「母系制の研究」などの女性史研究家)

熊本出身の女性活動家の多くが、横井小楠を思想「実学」の理念を学んだ高弟たちの家系から輩出しています。

 また、実学の流れの中で、英学校、医学校が明治期草々に、設立されキリスト教の布教活動の発端と言われる「熊本バンド」も出来、ここから多くの偉人たちを出しました。同社大の創設者・新島譲も参加しています。

 一昨日、今話題なっている関東大震災後の都市計画を考案した後藤新平の妻は、安場保和の娘と言う事を井上智重(熊本日日新聞編集員)との対談で知りました。
 横井小楠は、明治維新に大きな影響を与え、勝海舟、坂本龍馬、松平駿嶽公の師であり、維新政府の政策にも大きな影響を与えています。

 大宅氏の「熊本の猛婦たち」(婦人公論)を読むと、女性たちは高い志と行動力を備え、男性たちの中で堂々と怯まず意見を述べ、仲間をつのりハツラツと活動してことがうかがえます。

 トルストイも感心させた横井小楠の実学の理念は、「平和」ではなかったのかなと私は思っています。甥の横井左平太と横井太平が、留学(洋行)する折に送られた有名な漢詩があります。

 作:横井小楠(慶応2年(1886年))
 尭舜孔子の道を明らかにし 
 西洋器械術を尽くす 
 何ぞ富国に止まらん 
 何ぞ強兵に止まらん 
 大義を四海に布かんのみ

 この理念が、小楠から高弟たち、そしてその家族、親族に広がり、明治期に熊本から多くに女性活動家を出した基になっていると思っています。
 来週、10月26日に熊本市で、上記の女性偉人たちを顕彰するシンポジムが開催されます。今年2月から準備進める中で、反響の高さを励みに進めて来ました。興味ある方はぜひ、ご参加下さい。

  シンポジウム「横井小楠と肥後の猛婦たち」
           記
 日 時  平成19年10月26日(金)
      13:30~16:30
 場 所  国際交流会館ホール(6階)
 参加費  無料
   <プログラム>
 メッセージ    潮谷義子(熊本県知事)
 特別ゲスト    横井和子(横井家現当主)
 パネリスト    緒方 惇(作家)            
          堤 克彦(横井小楠研究家、文学博士)
          中村青史(エッセイスト、文学博士)                   本田節子(作家)
 コーディネーター 井上智重(熊本日日新聞編集員)

 実行委員長    高宗昭敏(熊本横井小楠塾塾長、九州東海大学名誉教授)
  
 問い合わせ先 事務局 
 〒862-0913熊本市尾ノ上1丁目48-6リブズ菊池1F 
   環境共生施設研究所内 事務局長 野口修一(熊本横井小楠塾世話人 
   aande@lime.ocn.ne.jp

・「肥後の猛婦」シンポジウム
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「大義を四海に布かんのみ」
~大義(平和、共生)を世界へ広げるのみ~  

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2007年10月18日

自覚力は珠玉、意志力は名剣

自覚力は珠玉、意志力は名剣

 私情や私欲にうち勝つには、いち早くそれを自覚しなければ困難だという説がある。また、せっかく自覚しても意志が弱かったら克服できないという説もある。
 思うに、自覚する能力は魔物を照らし出す珠玉であり、やりとげようとする意志力は魔物を切り捨てる名剣である。二つとも、なくてはならないものだ。

(解説)
 これは私情や私欲を克服するときだけでなく、むずかしい問題に取り組むさいにもあてはまるであろう。まず問題の所在をよく把握し、その上でねばり強く解決にあたるのである。やみくもに動いても成功は保証されない。  

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2007年10月18日

四十、五十にして聞こゆるなきは

四十、五十にして聞こゆるなきは

 世間的にはさして地位や名声がなくても、いわゆる名士・有名人でなくても、自らその環境の中で名が聞こえてこない、おるやおらぬのやらさっぱりわからない、お前おったのか、というようなことでははつまらない。少しできた人間ならば世間は都も書く、すくなくともその仲間環境の中には必ず聞こえるものだ。
「四十、五十にして聞こゆるなきは(畏るるに足らざるのみ)」というのはそういう意味だと解釈しても、私は少しも差し支えないと思う。

 名を天下に馳せるなどということはあえて自ら欲すべきことではない。場合によっては親戚・縁者だけの間でもよい。いい叔父さんだよと言われるだけでよろしい。
 大小は問わずどこかでやっぱり聞こえなければ、四十、五十になった値打ちはない。いい年をして、世間に出ても人からいやがられ、家の帰っても女房・子供からいやがられる、そんなことでは人間ダメである。

(感想)
 やはり、自分さえ良ければ良いの生活態度では、なかなか世間の評価は難しいと感じます。東大の篠原一先生の書かれた「市民の政治学」の中に、仕事には3つ有る。収入を得る「労働」、現代の社会を支える有償・無償のボランチィアの「仕事」、未来世代のためめに働き見返り求めない「活動」がある。これをバランスよく行うのが大人とありました。
 何処に比率を多くするかが評価に現れるように感じます。皆さんの生活を少し、この視点でキャリアを検証してみると良いのかもしれません。

 自分で宣伝して回ることは必要ないですが、「四十、五十にして聞こゆるなきは(畏るるに足らざるのみ)」と言われないような、大人として仕事には3つのバランスを自分の出来る範囲でやってみるのも重要な人生の選択と思います。自分の評価は、自分で出来るのでなく周りの人々の信頼の大きさによるのだと思います。

 私自身どうかと考える安岡先生の「一日一言」でした。
  

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2007年10月18日

知識の学問と知恵の学問 (安岡正篤「一日一言」より)

知識の学問と知恵の学問 (安岡正篤「一日一言」より)

みなさん、おはようございます。いつも私の愚問の日記にコメントいただき感謝いたします。

今朝も、安岡正篤「一日一言」を紐解きながら、ここ数日のメッセージ交換の中で、年を取ることは意味があるのだと感じています。



(本文)

・知恵の学問

 知識の学問と知恵の学問では非常に違うのであって、地しくの学問は、われわれの理解力・記憶力・判断力・推進力など、つまり悟性の働きによって誰にもひと通りできるものだ。子供もできる、大人もできる、善人もできる、悪人もできる。程度の差こそあれ、誰でもできる。その意味では、機械的な能力である。

 しかしそういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、われわれの性命や、人間としての体験の中からにじみ出てくるもっと直感的な人格的な学問を知恵の学問と言う。

 だから知識の学問より知恵の学問になるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのである。

 それを深めると、普通で容易に得られない徳に根ざした、徳の表れである徳恵(「とくけい」あるいは「とくえ」と読む)という学問になる。これが聖賢の学である。



(感想)
 日常の暮らしの中で、人と関わり合うのは日常ですが、その色々な場面で人それぞれの性格、経験から関心したり、あれっ?と思うことがあります。知識は、色々訓練の中で熟達して行きますが、人と人のコミュニュケーション、リーダーシップに関しては、なかなかマニュアル通りに行かないことを経験します。
 心の問題「ソフト・パワー」の領域がこの点だと思います。仕組みやマニュアルの知識「ハード・パワー」は完璧にこなしても、人との心は、簡単に集約されないことが多々あります。

 人は、何か惹きつける魅力や興味で「この人に協力しよう」「この人に付いて行こう」と思うのではと、青木保氏の著書に出てくる「ソフト・パワー」を、私は自分勝手に解釈しています。
 それぞれが経験を積み、経験から出る言葉には、重みと優しさがあると感じます。年長の存在価値は、その辺りにあると思っています。

 現代はIT社会と言われますが、それは知識(技)の部分で、人と人の係わり合いは、古(いにしえ)の時代からあります。儒教の基本といえる「尭」「舜」の時代のことを、論語では今も基本して、人との関わり合いを学んでいます。大学・中庸を読むと、ドキッとすることが多々あるのは、日常の生活は2500年の時を越えて、そう変っていないと気付かされます。

 現代の知識集約型中心の社会でなく、経験と知恵を中心とする、人と人の生業に視点を置いた社会を重要視して行く事が必要な気がします。



(終わりに)

 今日も人の言葉を使っての日記ですが、先人たちも偉人の言葉を学び、考え、語り、社会を良くしようと頑張って来たように思います。私も、日々無駄に時間を使うのでなく、先人たちの知恵(経書を)学びながら、これかも生きて行こう思います。お付き合い頂ければ幸いです。

                    中年の学徒 ノグチ
  

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2007年10月18日

「塾と学校の楽しさの差」(娘の塾通いに思うこと)

「塾と学校の楽しさの差」(娘の塾通いに思うこと)

 我が家は、長女が中2の夏休み中と、中2の終わり~卒業まで。
次女が、中2の夏休みから通いっていて、来年の卒業まで行くと思います。
 なんでこれを書くかと言いますと、昨日の日記の書き込みで、学習の自主性のことを、らーうー様が書かれたことを、我が家のことで考えてみました。
 

(月曜の日記から)

らーうー様 (の書き込み、感謝いたします)

 知識を身に着けるためには、自主性が必要でしょうね。中学まで全く勉強しなくて当然のごとく中学浪人した私が、少しは勉強しようと思ったきっかけは・・・・・



(我が家の状況と師からの言葉)

 勉強は辛いものですね。自主性も有りますが、私の人生相談の師(友でもあります)が、勉強は楽しくないと続くかないと指摘されました。自分の体験も含めた話をして頂き非常に参考になっています。

 今、中学の娘は土曜日に約8時間、平日4時間半塾に居ます。各日の授業は、土曜日が50分の3時間、平日が2時間ですので、後は自習しつで勉強していると言います。
 なぜかと聞くと学校よりも塾が楽しいし、分かりやすく教えてもらえることと、最大の要因は同じ意識をもつ友達が居ることだそうです。
 同じ興味を持ち、目標校は違えども、たのしく勉強できると言うのが理由のようです。

 師の実体験にも似ていて、「自分は、学校入学時劣等生であったが、クラスで一番の横にいつも居て、一緒に勉強して、やり方を真似て居ていたら、その彼を抜いて一番になっていた。」その体験に、「一緒に勉強がとても楽しかった」と感想もあり、「野口君、勉強は毎日が楽しくなければ行けない。遊びの楽しさでなく、興味の湧きく、勉強の楽しさを作り出せば続くよ」と指摘がありました。

 娘たちの状況は、同じようなレベルと意識の友達が数名居て、塾に一緒に居ることも楽しいようで、私たちの世代からは考えられない風景で、戸惑いながらも、師の教えの効果で、成績がじょじょに上がっていて、「楽しさ」効果が出ているようです。


(現在の公立中学校の現状)

 現在の中学校は、地域(校区内)の全員が集い、子供を含め親も色々な興味の違う人たちが会し、その要望に答えるべく先生一人で、40人の生徒を教えて行きます。

 中学校になると(学習)意欲によって、理解度に大きく差が出て来ます。これをどう授業して行くかは、古参の先生もですが、若い先生には、至難の技に近い状況と聞きます。
 少子化で、逆に親の要望が強くなり、対応する学校も苦労しているようです。

 私は、現在PTA会長をして、先生方と語る機会もたまに在るのですが、文部省の指導要綱だけの頼りにして、授業を組んで(スピードで)いけば、理解が遅れた子供には、興味をそそる授業では無く、個性を伸ばすとする指導趣旨と離れて行きます。

 また、地方の学校では、親の姿勢もあるのでしょうが、収入格差からも、学習の習熟のために補助する塾や家庭教師等の手立てを親ができず、更に理解度が開き、3年生後半になると、成績一覧のカーブのM字が、益々強くなって行くそうです。
「(理解の遅い子には)授業は進む、理解できない。」
「(分かる子には)授業が遅い、受験に間に合わない。」
の問題の間で先生、親も揺れています。


(授業を楽しくする対策)

 M字カーブの生徒の成績に合わせて、一クラスに2人先生を付け、進んでいる生徒と理解が遅い生徒で分けて、分かる(興味が湧く)授業にと苦慮の末、校長が決断し、2学期から始めることになったそうです。
 中学の科目で、大きく差のつく英数だけですが、良い取り組みと思います。

 実際、子供の個性は全部違い、興味も異なりますので、本当は一人ひとりの理解度に合わせて、学習プログラム作れば良いのですが、現在の40人体制のクラスでは到底不可能です。

 小学校の1,2年の少人数クラスの重要性は、専門家の指摘もあるようにだいぶ進んでいますが、高校進学前の中3年生にも、各学科の理解度に合わせて少人数の指導が必要と感じています。


(あとがき)

 これから来る少子高齢化社会の中で、子供たちが一人の担う地域での責任は大きくなるばかりです。地域の次世代育成に力を注ぐためにも、中学後半の少人数授業と、高校との連携強化も必要になって来ると思います。
 皆さんの周りの中学校は、どんな取り組みをしているか、たまには覗いて見る事も必要と思います。それは、次の地域社会を動かす人材であり、自分たちのまちづくりの中心になって行く人たちですから。

 地域力=人材力と言われます。

 少子化で少なくなった大切な子供たちを、地域全員で育てる時代になって来たと考えています。
  

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2007年10月17日

『人間のつとめ』 尾崎 行雄(おざき ゆきお)

『人間のつとめ』 尾崎 行雄(おざき ゆきお)

 たとえ自分の利益になっても、害になっても、とにかく正邪を判別する良心があれば、自分の見聞した事実を公にして、世の誤りを正すことが人間のつとめである。

 ・・・利害損得のみに執着する日本人の封建思想を叩き直して、正邪善悪に基づいて行動する人間をつくることが、民主教育の目的であり、教育者の使命である。

 世界中から尊敬せられ、愛せられる日本人をつくるためには、まず教育家の魂から、つくりなおしてかからねばならぬとすれば、前途道遠しの嘆なきを得ない。しかし、日本人の心に根強くこびりついている利害損得本意の封建思想を叩き出して、正邪善悪本意の真の民主主義精神をしっかり教え込むというような大事業は、たとえどんな立派な教育家があったところで、とても少数の専門教育家が学校で生徒を教えるくらいで成し遂げられるような、なまやさしい仕事ではない。・・・日本人全体が教師となり、同時に生徒になった気で、たがいに教え、教えられつつして、向上していくより外はない。  

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2007年10月16日

多読より「少数精読」の奨め(程伊川)

多読より「少数精読」の奨め(程伊川)

 私なりに時間を見つけては、本を開くのですが、最近の傾向は新書を乱読するのでなく、古典や心に残った本を何度も読み返すようになっています。
 年齢を重ねて来ると、先人たちの知恵(言葉)を欲するようになり、新聞記事の故事にハッとして、その原本を探したり、人に聞いたりして、言葉が生まれた背景等も興味対象になっています。
 ここ半年は、三国志の書かれた時代に興味があり、作家の守屋洋氏の文庫本を中心に、三国志に関連本をリサイクルブック店での古書探しが、時間が空いた時の用になりつつあります。
 守屋洋氏の「中国古典 一日一言」の中に、次に一説がありました。

「書は多くを看るを必せず、その約を知らんことを要す」

意味は、必ずしも多く読む必要なない、ポイントをつかむことが肝心だと言うこと。
 
 この言葉を語ったのは、宋代の大学者の程伊川と言う人で、朱子の先生にあたる人で、あるとき門人から学問の方法を問われたとき、「すべからくこれ書を読むべし。」
 そしてさらに、「多くを看てその約を知らざるは書肆(しょし)のみ」と一句をつけた。意味は、本屋のおやじと同じ。
 伊川先生の「少数精読」主義は、今でも一定の効果を持っていると思います。例えば、一冊の古典を読めば先哲の教えや知恵が、現代に読みがえってハッとしたり、なるほどと思うことが沢山あります。
 多忙な現代、心に残る「自分の本」を時間を見つけ、読み返すことも心を取り戻す方法の一つのように思います。読書の秋、思いの一冊を読み込んでみるのも良いとおもいます。

*参考資料:守屋洋著「中国古典 一日一言」  

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2007年10月15日

「正道を貫く意地」 ~西郷南州遺訓より~

「正道を貫く意地」 ~西郷南州遺訓より~

 道を正しく行う者にとって大切な心構えの一つは、世間の無責任な評判に左右されない、ということです。

 外から聞こえてくる声は二通りあるものです。

 親身になって忠告やアドバイスと、興味本位や妬みから浴びせる無責任の声であります。じつは、後者のタイプの声のほうが、世間には圧倒的に多いのです。

 特にいい調子で「ご立派、ご立派」と愛想笑いを浮かべながら、近づいてくるのです。いずれにしろ、そうした声に惑わされると、いつの間にか増長の心が芽生えてしまい、ついには道を踏み外してしまいます。

 周りの評判など、道を行うことと何の関係もない。道を正しく行えるかどうかの判断は、天がしてくださる。何よりも自分自身が納得できるかどうかが問題なのです。

 ――と、本当に道を行えている者ならば確信できます。

 この世において「道を最後まで行う」ことは、それほどまでに難しいのです。周りの声に惑わされて失敗したり挫折したりする危険性が、常にあるのです。  

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2007年10月15日

変革は、一人ひとりの気付きから始まる

変革は、一人ひとりの気付きから始まる


「内発の力」(安岡正篤語録)

 思想とか信念とか信仰とかいうものは他から与えられたものでは駄目で、個人の魂、個人の人格を通じて発してくるものでなければならない。どんなりっぱな理論信仰でも、それが自分の中を通じて来なければ、決して生きた力にならない。

 親鸞にしても道元にしてもみなそうである。何も別段新しいものを拾ったのではない。国民の中から一人でも多くの大覚者、志士、仁人が出て真剣にものを考え、行動することである。そうすれば必ずやがてそれは大きな力になり、組織になり、時勢を動かす。それよりほかに道はないのである。(「一日一話」より)


(感想)
 変革の全ての基本は、一人の気づきから始まると、先人たち功績から多くの教示があります。学ぶことの大切さ、歴史から教えを直に受け入れ、現代にあてはめて考えることが最も重要なことのようの思います。
 自分の心の中からの声を聞き、行動すると自ずと仲間が増えて行くのかも知れません

  

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2007年10月13日

論語 学而第一」の一説、「温良恭倹譲」

論語 学而第一」の一説、「温良恭倹譲」


「子禽、子貢に問うて曰わく、夫子の是の国に至るや、必ず其の政を聞く、之を求めたるか、そもそも之をあたえたるか。」
 「子貢曰わく、夫子は温良恭倹譲(おんりょうきょうけんじょう)、以ってこれを得たり。夫子の之を求むるは、其れ諸(こ)れ人の之えを求むるに異なるか。」
              
(解説)
 子禽が、子貢に問うた。
「孔(子)先生は、どこの国に行かれても、必ず政治について聞かれるが、これは自分から求められたものか、それとも先方から持ちかけられたものでしょうか」

 子貢はこれに対して、
「孔先生はお人柄が、おだやかで素直、うやうやしくて行いにしまりがあり、それに謙虚で人に譲るところがあるので、自ら先方から求められたのである。従って先生が求められるのは、一般の人の求め方と大いに違うように思う」

(感想)
「温良恭倹譲」を肝に銘じて生きていきたいと思います。   

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2007年10月13日

くよくよせず、いつも笑顔で前向きに(短文)

くよくよせず、いつも笑顔で前向きに(短文)

今日は、簡単な書き込みです。ご笑覧ください。

「師友」
1.物識りよりも物分りが肝腎。
2.得なことよりも正しいこと。
3.財より信が大切。
4.退屈せず。仕事に心身をうちこもう。
5.くよくよせず。いつも笑を含んで。
6.書を読み、教を聞こう。
7.私事に捕われず、公儀に尽そう。
    (安岡正篤「一日一言」より)

 日常の暮らしは、単調ですが、毎日前向きに、くよくよせず、明るく元気に過ごせれば、それ良いのだと思います。


 昨日父が、所有の里山から栗をたくさん拾って来て、秋の味覚を友人・知人、東京の従兄弟と配っていました。馬肥ゆる秋ですね、美味しい季節は、食べ過ぎに注意しましょう。
 ちなみに、家族の秋の好物は、きのこ汁です。きのこ狩りにでも行きたいですね。  

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2007年10月13日

「温良恭倹譲」 (学而第一の一節)

「温良恭倹譲」 (学而第一の一節)

「子禽、子貢に問うて曰わく、夫子の是の国に至るや、必ず其の政を聞く、之を求めたるか、そもそも之をあたえたるか。」
 「子貢曰わく、夫子は温良恭倹譲(おんりょうきょうけんじょう)、以ってこれを得たり。夫子の之を求むるは、其れ諸(こ)れ人の之えを求むるに異なるか。」
              
(解説)
 子禽が、子貢に問うた。
「孔(子)先生は、どこの国に行かれても、必ず政治について聞かれるが、これは自分から求められたものか、それとも先方から持ちかけられたものでしょうか」

 子貢はこれに対して、
「孔先生はお人柄が、おだやかで素直、うやうやしくて行いにしまりがあり、それに謙虚で人に譲るところがあるので、自ら先方から求められたのである。従って先生が求められるのは、一般の人の求め方と大いに違うように思う」  

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2007年10月12日

広い心をもって生きる(菜根譚より)

・広い心をもって生きる(菜根譚より)

 この世に生きているあいだは、広く大きな心をもって生きなければならない。そうすれば、どんな人にも不平不満の気持ちを抱かせないであろう。
 死んだのちには、いつまでも尽きない恩沢を残さなければならない。そうすれば、どんな人にも満ち足りた感じを与えることができるできよう。

(解説)
 人間関係の大原則の一つが「自分には厳しく、人には寛容に」であるが、放っておくと、ついこれが逆になってしまう。そうなると、どんな人間関係でもうまく行くわけがない。
 また、死後のことまではなかなか思いを致す余裕はないのだが、できれば、長く人々の記憶に残るような生き方をすることが望まれるのだという。

(感想)
 死んだ後のことまでは、考える余裕はないですが、関わる相手のことを常に思いながら、言動に気をつけるとうまく関係が保てると先人たちも沢山教えを残しています。
 「自分には厳しく、人には寛容に」は、なかなか実行が難しいですが、心に思って語るのと、何も考えず感情のまましゃべるとではだいぶ違うと思います。常に心と語りながら、相手のことを思い、周りも好感を持ち、関わる人たちの未来も良き方向へ向かうような、心地よい関係を持てると良いなと思います。

 「日々反省、一日三省、日々新たに」の先人の訓示を大切にして生きたいと思います。  

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2007年10月12日

変革は、一人ひとりの気付きから始まる

変革は、一人ひとりの気付きから始まる


「内発の力」(安岡正篤語録)

 思想とか信念とか信仰とかいうものは他から与えられたものでは駄目で、個人の魂、個人の人格を通じて発してくるものでなければならない。どんなりっぱな理論信仰でも、それが自分の中を通じて来なければ、決して生きた力にならない。

 親鸞にしても道元にしてもみなそうである。何も別段新しいものを拾ったのではない。国民の中から一人でも多くの大覚者、志士、仁人が出て真剣にものを考え、行動することである。そうすれば必ずやがてそれは大きな力になり、組織になり、時勢を動かす。それよりほかに道はないのである。(「一日一話」より)


(感想)
 変革の全ての基本は、一人の気づきから始まると、先人たち功績から多くの教示があります。学ぶことの大切さ、歴史から教えを直に受け入れ、現代にあてはめて考えることが最も重要なことのようの思います。
 自分の心の中からの声を聞き、行動すると自ずと仲間が増えて行くのかも知れません

  

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2007年10月11日

心温かい人は、慕われ、信頼される。

心温かい人は、慕われ、信頼される。

 地域の先輩方に色々指導を受けているのですが、いつもおだやかで、相手のことを
考え続けて居られ、驕り無く謙虚な生き方に、教示を受けています。
 先輩たちの生き方を見て、中国故事の『詩経』に次の一説があります。

「温温たる恭人はこれ徳の基なり」

 温温:おだやか、柔和
恭人:自分に対して慎み深く、人に対してはうやうやしい

 徳のある人は、周りの人から慕われ、信頼される。
 まちがっても、人の怨みを買うことはない。
 そん人を「温温たる恭人」と先人が説いている。

 「温温」反対の人を評しては、「冷たい」「とげとげしい」「きびしい」等
の言葉が浮びます。こちらのタイプに人は、冬の寒さを連想させます。これでは、人が
集まって来ないし、心を開いてくれる人のいない。

 「恭人」の反対は、傲慢な人。傲慢は、近づいてくる人まで遠ざけてしまいます。徳
とは、およそ無縁な人になります。

 また孔子は、「恭なれば則(すなわ)ち侮(あなど)られず」と語っています。「恭」もま
た処世の心得の一つと思います。


 『詩経』には、厳しい人生訓もあります。

 「初めあらざることなく、克(よ)く終わりあること鮮(すく)なし」
 意味:誰でもやり始めはうまくいくが、それを最後まで持続させるものは少ない。

 *「初心忘るべからず」 
 一、最初の緊張感を持続させるように心がけよ
  一、好調なときこそいっそう気持ちを引き締めてかかること

 常に、心がけが重要なように思います。

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<直前日記>
10月10日 知事多選禁止条例案可決、「巧を成す者は去る」
10月09日 法規制重視は、社会を停滞させる。モラル教育の充実を
10月08日 夫婦は会話。豊後高田市の昭和まちづくり。
10月07日「成長の限界 人類の選択」枝廣淳子氏講演会参加
10月06日「現代の戦争は、娑婆の出来事でない」他、遺訓2編
10月05日「厳しさと愛」を家族生活の中に加味する
10月04日 理想は求めるもの。灯台に近づきすぎると難破する
10月03日 良識が通る社会を、市民が望むことが重要

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
・菜根譚(さいこんたん)
 第五十六話 臨機応変に心がける
 第五十七話 広い心をもって生きる
http://mixi.jp/list_bbs.pl?id=2310909&type=bbs

・心を育てる言葉
 http://mixi.jp/list_bbs.pl?id=1186424&type=bbs
「一攫千金より、本来の命題を目指す」
「位なきを患えず、立つ所以を患えよ(論語)」

・ウィリアム・ジェームズの言葉
「人が失敗する原因は、ひとつしかない。
それは本当の自分にたいする信頼の欠如である。」   

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2007年10月04日

「今日の一言」(三国志の英雄・諸葛孔明の名言)

「今日の一言」(三国志の英雄・諸葛孔明の名言)

 日本の政治機構のふがいなさを思い、今日は論語の言葉ではないですが、昨秋に書いた日記を載せます。


「鞠躬 (キツキュウ) 尽力、死して後已まん」

 昨秋、熊本県の中央部地域の教育事務所と同地域のPTA連合会の意見交換会があった。久々に、教育者の熱き思いを聞く機会を得たと思える教育事務所長の講和だった。これに近い感銘を受けた話は、現熊本県教育長が次長時代に、県PTA研修会での講演を思い出す。

 所長は、自らの教育実践で経験して来た言葉は、人を惹きつけるものがありました。人を育てることは、一対一の真剣勝負であることを再認識させる事例ばかり出て来ました。
 二年前まで校長時代の話が中心でした。札付きの不登校の意識を変えるために、毎日努力を惜しまない、生徒が来なければ出向く、地域に頭を下げ協力要請し、校長自ら地域との連携を創り上げる努力は、私自身も見習うとろがたくさんあると感じました。

 教師がサラリーマン化したとマスコミは評していますが、まだまだ教育に情熱を注ぐ先生たちがいることを感じた良き意見交換でした。

 昨日の話と今朝の読書が重なり、下記の言葉を思い出した。三国志に出て来る諸葛孔明の言葉の一節。

「鞠躬 (キツキュウ) 尽力」

 劉備亡き後、二代目劉禅に奉った『後出師表(ノチノスイシノヒョウ)』の結びの言葉である。意味は、「身を粉にして働きます」という諸葛孔明の決意表明。
 事実、小国、蜀の全権を委任され、宰相としてきり盛りしながら国力を整え、宿敵の魏に立ち向かった。それはひとえに無き劉備の信頼にこたえんがためだった。孔明は、その精勤ぶりで国民や部下の厚い信頼を受けたばかりでなく、古今の名宰相として、広い支持を集めてきた。
 リーダーが先頭に立って働けば、部下もその気になって頑張らざるをえない。そういう意味で、率先垂範もまたリーダーの重要な条件のひとつである。(守屋洋著、三国志名言より)

 20世紀の名宰相、中国の周恩来氏の死去のとき中国の人々が送ったことばが、この「鞠躬尽力」だったそうだ。私欲を捨て、国家の隆盛を願い「身を粉にして働いた」姿勢は、いまだに世界から敬慕されています。

 現代の色々な分野のリーダー、この中国古典の言葉を実践して欲しいものです。私自身も「鞠躬尽力」を実践に努力して生きたいと思います。
  

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