2008年05月29日

やわらかく握るところに人生の真味あり(新渡戸稲造『自警録』)

やわらかく握るところに人生の真味あり(新渡戸稲造『自警録』より)

 老子の言葉に、他人を理解するものを「智」、自分を理解するものを「明」と評し、その自分を理解していない人が、自分も含めいかに多いことか、最近の出来事で色々経験しました。昨日も、自分を確かめられるメールで、ハッと気づかされました。
 時機はあるものと、痛感しました。

 さて、武士道を海外へ紹介したことで日本人みんなが知っている新渡戸稲造氏が、明治後半から大正初期に書かれた、青年へ向けたメッセージのコラム集があります。全部で4冊あるのですが、三冊目の「自警録」と言うものの中に、次の一説がありました。ご紹介します。

(本文より)

やわらかく握るところに人生の真味あり 

 たびたびいう通り人世は多数の人とともに乗り合う渡し舟のごときものである。人とともにこの世を渡るには、おだやかなに意気地ばらずに、譲り得るだけは譲るべきものと思う。僕のしばしば引用する『菜根譚』には、

「経路せまきところは、一歩を留めて、人に行かしめ、滋味濃(こまや)やかなるものは、三分を減じて人に譲りて嗜(たしな)む、これは是れ、世を渉る一の極安楽法なり」と。また、

「世に処するには一歩を譲るを高しとなす、歩を退くるは即ち歩を進むるの張本」

といい、世渡りの秘訣は人に譲るにあることを繰り返してあるが、実にその通り、自分の権利を最大限に要求することははなはだ卑劣に陥る所以と思う。不思議なもので、人生には理屈をもって説き得られぬことがたくさんある。沙翁(さおう)〔シェークスピア〕の言にも、

「世の中には君の小さき哲学の夢にだも思わぬことが多い」

と、昔時の物語にもある通り、出来るだけの力をもってなるべく多く握らんとすれば、かえってわずかの分量しか手に入らぬ。やわらかく握るほうがかえって多く握れる。

これはむろん掴む工合にもよりけりであるが、ここに述べたのは粟とか米とかの例に用いたものである。鉄棒とか金棒とかならば、また例を変えねばなるまいけれども、恐らくこの世における幸福なるものは粟、米のごときもので、やわらかく握ったほうが余計に掴み得るものであるまいか。

権利とか名誉とか利益とかいうものであれば、他に握りようもあるか知らぬが、僕は人生の妙味とか真の幸福とかを重く思うから、むしろやわらかく握って、すなわち自分は引っ込む態度で、なるべく人に譲るをもって、人生の真味を味わい得るものと思う。(中略)


 今日の紹介文は、長くなりましたが、全文を読んで頂かないと真意が伝わらないので、そうしました。私の感想等は、必要ないと思います。
 人生の達人、新渡戸稲造氏の生き方の教示には、敬服するばかりです。(感謝)

 色々、ご意見頂ければ幸いです。







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