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<title>宇土・親子論語教室</title>
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<description>宇土市で始まった、親子（大人と子ども）で論語の素読と、教えを学ぶ教室。そこで学んだ言葉を紹介します。『論語』 『大学』『中庸』『孟子』『菜根譚』等説明 　ほとんどの日本人は、「論語」と言う言葉を聞いたことがあるとおもいます。しかし、中身に関しては、深く知らないと感じます。私もそうですが、日々の生活の中にその思想は深く根付いていると言われます。 [影響を受けた人物] 聖徳太子、菅原道真、二宮尊徳、佐藤一斎、梅田潜庵吉田松陰、佐久間象山、横井小楠、西郷隆盛、山田方谷、渋沢栄一、安岡正篤、木内信胤、他。『教室の開催日』毎月第一土曜日、午前１０時から、『会場』熊本県宇土市の中央公民館（宇土市民会館前）</description>
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<pubDate>Fri, 15 Dec 2006 07:21:09 +0900</pubDate>
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<title>＜家庭教育＞名宰相・謝安の子弟教育</title>
<description>＜家庭教育＞名宰相・謝安の子弟教育　２日かかりで、ここ半年掛かったイベントの報告書が出来ました。なかなか手間仕事で、ボランティア活動の編集だと、やはり後回しになりがちです。でもいつかやらないと終わらない仕事、期限を決めて終わらせました。やれやらです。　さて、来月13日に、ユニセフ熊本支部主催で、ミニシンポジム「アフリカと日本の家庭教育を考える」にパネリストとして参加居ます。アフリカ出身の男女２人と日本人は私1人、３人の対談を40名くらい方が聞き、後半は一緒に会場とも討論すると言う対論の集いです。　２日前に、ジンバブエ出身の女性と意見を交わしました。もちろん日本ですが、４０分ほどユニセフ熊本支部の方も交えてでしたが、ジンバブエの首都の出身で、父は教育者、本人も大学院で博士を取得した方で、謙虚な中にも自分の意見はしっかり持っていると感じました。  テーマが家庭教育なので、色々話してして「親の背中を見て育つ」と言う言葉に行き付きました。それについて考えていて、安岡正先生が書かれた「孟子」に、次にことが書かれていたのを思い出しました。（本文より）　名宰相・謝安の子弟教育　・・（中略）夫婦の道もこれに準ずべきものですが、夫婦は親子と違って、本能的関係に加うるに朋友的要素もありますから、いくらか、それの最初の間に、優しく善を責めることも必要でありましょう。　父子の間について私の好きな一佳話があります。　晋の名宰相・謝安の婦人がわが児を教えながら、平生一向に夫がわが児を教えないのに不満であったと見えて、「貴方は初めから児を教えなさるところを見たことがありませんね」とからみました。ところが謝安曰く、「われは常に児を教える。これある哉（か）」つまり、いつも一緒に暮らしておるのですから、二六時中お手本を示しておる。別に事新しく説教するまでもないと言うのです。（中略）　上記の安岡先生の解説に付け加えることはありません。父、母の生方そのものが、子どもへの教育と言う教えと思います。＊参考資料：安岡正篤著「『孟子』不安と混迷の時代だからこそ」より</description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Fri, 07 Nov 2008 17:56:59 +0900</pubDate>

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<title>「六中観」苦中楽ありとは無限に意義ある言葉</title>
<description>「六中観」苦中楽ありとは無限に意義ある言葉　現在の状況を憂う人たちの声が大きくなっているように感じます。「自民VS民主」の国会内闘争の間に、地方は疲弊してしまった。実体経済の充実で豊かな社会を目指そうと言う動きも広がっています。 　知識詰め込み教育で考えない国民を作り続けている、多様な危機に対応できる人材を育てる教育が必要と感じている人たちも増えています。 　故安岡正篤先生の教示の中に、「六中観」がありますが、その一つ「苦中有楽」で、次の言葉があります。（本文） 　苦中有楽・・・苦しい事を嫌な事だと受け取る人が多いですが、それは逆です。もの凄く苦しい時は、嫌な事だと思わないで、これは自分自身を成長させる為に天が与えてくれたのだ、自分が発展・向上するチャンスだと意識的に考えると良いと思います。その結果ご褒美として、「楽」（たのしみ）が生まれます。そう考える習慣をつけるとよろしいでしょう。 　安岡先生は次にように説明されています。 　「難しい問題と取組むほど頭が良くなる。易しいことにばかり頭を使っておったらだめになる。これは人間の体がそうだ。何も体を鍛えることなしに乳母日傘で育ったら、夏は冷房、冬は暖房で育ったりしたら、人間の体も頭もみんなだめになる。うんと苦しめなければならない。難しい問題と取組まなかればいけない。そうすると頭はうんと良くなる。人間社会のあらゆる勿体ない遊休施設の中で、頭くらい遊ばしてあるものはない。苦中楽ありとは無限に意義ある言葉である。（安岡正篤著「人間維新」） 　天変地異は、有志以来ずっとおこり続けて来ました。その中でたくましく行き続けてきた先人たちの生き様こそ、私達現代人が学ぶ学問と思います。学問とは、危機に対応する能力と説いた偉人もいました。 　危機は、「危険」＋「機会（チャンス）」と思います。経済混乱を落日を思うか、チャンスを思うかで、行く先は大きく変わると思います。＊『陽明学のすすめⅡ～人間学講話「安岡正篤・六中観」』（深澤賢治著）より </description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Fri, 17 Oct 2008 10:09:42 +0900</pubDate>

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<title>（お盆休暇）安岡正篤氏の教示、出会うこと、気付くこと、</title>
<description>（お盆休暇）安岡正篤氏の教示、出会うこと、気付くこと、　今日は、朝ゆっくりでした。新聞、ネット等々に目を通し、仲間の日記もいくつか読ませてもらいました。　以前に書いた、AEDの投書が地元紙に掲載され、みんな同じことを考えているのだと確認できました。　「気づく」とは、何かと思うことがあります。「これって、変よね。私だけ思うのだろうか？　これ言うと笑われるかな？・・」と、色々考えたりします。　日々に仕事やまちづくりで、先輩の話を聞く中で、リーダー格に二通りの人物像が浮びます。とても物知りで、経験豊富で、若い人がやろうとすると、以前の前例たくさん取り上げ、知識豊富に語られる。これには、行動がを躊躇してしまいます。　片方は、若者の意向を聞き、「とにかくやらせる人」と、これは意欲が湧いてきます。どちらの指導者が正かは、その場面でないと判断できませんが、賛否あるところと思います。　今朝開いた、安岡正篤氏の「一日一言」に次に２つの教示がありました。「迂儒」　いくら本を読んで、知識を豊富に持っておっても一つも実際の役立たんという学者がある。こういうのを迂儒（うじゅ）という。いろいろ知ってはいるが、意外に役に立たん、生きた解決にピタリとしないというのを迂と言う。だから儒者でも、物知りではあるけれども活きた学問にならんというのを迂儒という。学説に「迂説」という言葉はこれからくるわけです。　しからば、見識をどう養うか、それは、やはり人生の体験を積んで、人生の中である深い理法、道というものがわからないと見識になってこない。（感　想）　見識とは、人との関わりから経験し、身体にしみこんだ体験、考え、反省も含め、行動から学び会得したものと、本で学んだ知識が合体して、閃くことではないかと思います。「小才の愚」　子曰わく、群居終日、言、義に及ばず、好んで小恵を行う、難いかな。〔論語〕　忙しい忙しいと言いながら大勢集まって、あちらで碁を打っておるかと思うと、こちらではつまらぬことをべらべらしゃべっている。折角の会合だからと行ったのに、いつまでたってもそれらしい話が出てこない。　そうして小知恵のまわるようなことでお茶をにごしている。これらは日常始終経験するところです。　つまらぬことには小才がきくが肝腎なことはさっぱり役に立たぬ人間は困ったものたというのです。（感　想）　昼間にゆっくり食事をすることが最近ないのですが、月に一度か、二度ゆっくり昼食をとり、この人と言う方と語りたいものですが、なかなか実現できません。それをやっているが、色々な大人の集まる倶楽部なのでしょうか。　時間を上手く使い、人と語り、見識を深めている人たちの時間の使い方を学びたいと思います。でも、ただ目的もなく、日時を決め、集まるだけでは、安岡先生に言葉ではないですが、「つまらぬことには小才がきくが肝腎なことはさっぱり役に立たぬ人間」の集まりのなってしまいます。　大切なことは、「思いを持ち、会いたい、語りたい」という人に会うことを、日々実践していく事だと思います。良き出会いは、更に良き出会いをつなげると言います。　短い一生の間に、ただ集まるのが目的でなく、目標を持って人と会って行かなければ、真の交流は生まれないように思います。　話があっち、こっちに飛びました。お盆休みの夕方、ふと思ったことを書きました。今から、祖先の方々を思い、親父と酒でも飲もうと思っています。　皆様にとって、夏の休暇が有意義なものである事を願っています。</description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Thu, 14 Aug 2008 18:03:15 +0900</pubDate>

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<title>（２６年ぶりの再会）朋遠方より来る有り、楽しからずや</title>
<description>（２７年ぶりの再会）朋遠方より来る有り、楽しからずや　今日、専門学校卒業以来あう友人と再開しました。何で、２６年ぶりに会えたかは、年賀状とここ６年になるメールマガジンのおかげかもしれません。メールマガジン「コモンズ･メール」は、月１、２度の不定期に（勝ってに）送信する、友人向けの活動報告メールで、熊本･九州を中心に、約８００名に送信して来ました。それが縁で、熊本へ帰郷した友人から「久々に帰って来たので、会いたいね」と連絡が有り、互に中年になっての再開は、楽しみでもあり、興味深々でした。　会えば、昔のように語り合えるのだなと思いました。インターネットのお蔭で、私に行動や考えを伝え続けて来たこともあり、ここ４、５年の話は無く、学生時代の友人の話や日常の仕事の話で、アッと言う間に３時間経っていました。同じ建築の道を目指し、学生時代は、全国コンペ（設計競技）に出し、競い合った中もでもあり、東京と熊本の仕事の内容は違うにしろ、互に参考になる話ができました。　私の興味は、「何で今頃、会おうと言ったのか」でした。東京で、いくつかの建築士事務所を渡り歩き、５０才を境に独立を考えているのだそうです。そこで、同級生で独立している人の様子（実態）を観察し、意見を求めに回っていると、本音を語ってくれました。　私は、独立して１８年間の苦労や工夫、更に金銭の浮き沈みも含め、全部語りました。何か自分の設計事務所の検証をやったようなものでした。５０人前後の東京の事務所と、熊本で個人事務所を中心に所属し、大型建築物も地方では工夫して学んで来たことを互に出し合いながら、前半は久々に建築談議を延々、熊本城の見えるレストランで、珈琲１杯で話し続けました。　後半は、さすがに中年になり社会ことや、子供たちにことも含め、話題が広くなり、私の社会活動のこと、指導を受けている先生方の話しと広がり、国の１千兆円の借金、熊本県の財政状況、熊本の財政改革まで出て来ました。ふと、やはり互に無駄に年を取っていないなと感じました。　せっかく訪ねてくれたので、建築･リフォーム業界の中で、これから都市部に広がる、地方から始まっている新しい動きを紹介しました。旧友とは、良いものだなと思います。　論語の言葉に、「朋遠方より来る有り、楽しからずや」も思っていました。　夕方帰って開いた本、安岡正篤先生の「一日一言」に、次の一説がありました。（本文より）　故（ふる）い友人を持って居る者ほど本物だが、絶えず新しい友人を漁獲（あさ）って歩く者は、それが順境である者ほど偽者だ。（感　想）　異業種交流会を続けて来て１１年になりますが、色々な方が私の会に参加されました。私の交流会は、出会った方と語る中で出てくる興味ある方に会い続け、その方々の出会いを場を作ろうと続けて来ました。中には、ぜひ参加させてと来る人がいます。　そんな方は、交流会（３０～７０名）中、名刺配りに一生懸命で、しっかり語ればいいのにと思い、行動を見ています。たいがいそんな人は、２度以上は来ない（続かない）ように思います。　交流会でリピーターとして参加する人は、一人ひとりに興味を持つ人が残るように思います。考えるに、「人に興味を持つこと」交流に一番必要と感じています。　もう一つ、安岡先生の教示を紹介します。（本文から）　私は物事を、特に難しい問題を考えるときには、いつも三つの原則に依る様に努めている。　第一は、目先に捉われないで、出きるだけ長い目で見ること、　第二は、物事の一面に捉われないで、出切るだけ多面的に、出来得れば全面的に見ること、　第三に、何事によらず枝葉末節に捉われず、根本的に考える、ということである。　目先だけで見たり、一面的に考えたり、枝葉末節からだけで見ると、長期的、多面的、根本的に考えるというのとでは大変な違いがある。物事によっては、その結論が全く正反対ということになることになることが少なくない。　我々は難しい問題にぶつかる度に此の心掛を忘れてはならぬ。（感　想）　「忙中に閑あり」は、安岡先生の教示の一つですが、多忙な時ほど色々なことが重なります。忙しい時ほど、考える時間を持てる寸暇が必要なのかもしれません。　今日は、旧友の来訪でしたが、１８年の歳月を振り返るとても良き機会になりました。論語の冒頭の「学びて時に之を習う」と言葉通り、過ぎた時、友と語る時、振り返る機会を得た時だったのかもしれません。　今日の同級生は、これから起業する人でもありますので、別れ際に「東京でまた会おう」とエールを送り、久々に旧友と語り合い、アッと言う間に過ぎた午後の一時でした。</description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Sun, 10 Aug 2008 00:07:35 +0900</pubDate>

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<title>（転機）成功は常に苦辛の日に在る、しびれる（感動）</title>
<description>（転機）成功は常に苦辛の日に在る、しびれる（感動）おはようございます。朝から、安岡正篤先生の「一日一言」を開いていて、目に留まったものを書きます。「成功は苦辛の日に」先賢が教えてくれている。愚はよく他の欠点を挙げるが、自己の欠点を知らない。話はうまいが、行いはつまらぬ。若いときはうかうかして過ぎ、壮時にはせかせか動き回り、老年には愚痴ばかりになり易い。正に、敗事は多く得意の時に因（よ）り、成功は常に苦辛の日に在る。やはり平生能（よ）く道を聞くことだ。「しびれる」何にしびれるかによって、その人は決まる。中江藤樹は、『論語』と王陽明にしびれていた。人間は本物にしびれなければならない。＊中江藤樹：陽明学を日本で最初に広めた人と言われています。（感　想）・しびれる　人間は、何に感動するかで、その人生が大きく変わるように思います。  中江藤樹は、王陽明の「陽明学」に感動したのだと思います。陽明学は、心の学問と言われ、「致良知：良心に至る」、良心は元々自分の中にあり、この良心は常に向上させるように努力を怠ってはいけない。と、王陽明の伝記（人類の知的遺産「王陽明」）を読んで学びました。　中江藤樹は、王陽明に「しびれた：感動」のです。我々も、何かに感動する。しびれることが必要です。テレビやゲームのバーチャルの世界でなく、現実に生きた人間に、しびたいものです。・成功は常に苦辛の日に在る　若いときはうかうかして過ぎ　～日々の楽しさを追い求めるだけでは、しびれるような感動は得れない。　壮時にはせかせか動き回り　～時には静かに、自分を省みることも必要。リーダーとして口よりも行動が先。　老年には愚痴ばかりになり易い。　  ～愚痴よりも、後世にタイミングよく、教示、示唆をさり気なく。　「少年老い易く学成りがたし」   日々の研鑽怠りなきよう、苦しい時こそ学びが必要なのかもしれません。。＜関連コミュ＞・中江藤樹   http://mixi.jp/view_community.pl?id=698590・陽明学   http://mixi.jp/view_community.pl?id=88931・心を育てる言葉  http://mixi.jp/view_community.pl?id=1186424・論語の言葉　http://mixi.jp/view_community.pl?id=2476660</description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Wed, 18 Jun 2008 08:10:43 +0900</pubDate>

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<title>人生の「三不幸」　（安岡正篤語録集『一日一言』より）</title>
<description>人生の「三不幸」　（安岡正篤語録集『一日一言』より）安岡正篤先生の人生講話のご紹介です。（本　文）　伊川先生言う、人、三不幸あり。少年に高科に登る、一不幸なり。父兄の勢に席（よ）って美官となる、二不幸なり。高才有って文章を能（よ）くす、三不幸なり。（『伊川文集』）　（解　説）　年の若いのにどんどん上へあがる。世の中はこんなものだと思ったら、大間違いである。というのは、修練というものを欠いてしまうことになるからで、これは不幸である。これは官ばかりでない。親のお蔭で若輩が重役になったりする、みな同じことである。　またいろいろのすぐれた才能があって、文章を能くする、・・文は飾る、表わすということで、つまり弁が立ったり、文才があったりして表現が上手なこと・・これも大きな不幸である。　今日は選手万能の時代で、野球とか、歌舞とか、若くてできる者にわいわい騒ぐ。これは当人にとって、大きな不幸であります。若くてちょっと小説を書くと、たちまち流行作家になって大威張りする。小娘がしょっと歌や踊りができると、やれテレビだ映画だ、と引っ張り出して誇大に宣伝する。つまらない雑誌や新聞がそれをまたデカデカと報道する。　変態現象と言うか、実に面妖なことで、決して喜ばしい現象ではない。　                                 （以上、『安岡正篤　一日一言』より）（感　想）　戦後の多くの首相、起業家、色々な分野のリーダーが師事した昭和の哲学者である安岡正篤先生の言葉を、世の現象を的確に捉え、見識の高さを感じます。　先生は、人生は晩年が大事、志、至誠、浩然の気、不断の努力と、人として何が大事か、どう生きるのを多くの場面で語られました。先月読んだ「人間学のすすめ」は、新たに目から鱗が落ちる思いを持ちました。　安岡先生は、中国古典やヨーロッパの西洋哲学にも造詣が深く、その短く語られて言葉には、人生を迷いを解く、たくさんのヒントが醸し出されています。日々に仕事の合間に読む、安岡先生の本に、元気をもらっている一人です。　今日の「三不幸」も、先生から大切なメッセージと、自分も、周りにもご紹介できればと思います。＜以前の日記＞・（ほどほどの境地）花を見るなら五部咲き（『菜根譚』より）＜ミクシィ・コミュニティー＞・心を育てる言葉  http://mixi.jp/view_community.pl?id=1186424</description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Fri, 06 Jun 2008 06:47:42 +0900</pubDate>

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<title>（道の実践）知る者より、好む者より、楽しむ者に</title>
<description>（道の実践）知る者より、好む者より、楽しむ者に　人の道とは何か？　日々悩んでいます。　「道」とはないか。安岡正篤氏の著書に「人間学のすすめ」の末尾に人生に必要な５つの言葉がありました。  節義、胸壊（きょうかい）、量と断、斡旋の才、誠  節義：節度を守って、正義を重んずる心　胸壊：周りの諸条件に萎縮せず、自分本来の自由な心、　量と断：量とは、人の度量とか器量のこと。　　　　断とは、識見と勇気を持って決断・実行すること。  斡旋の才：公益を考えた、人と人をつなぐ橋渡し（お世話）すること。　誠　：「只一片の誠つき通りて、人世の栄辱などは塵ほども胸中に雑じらぬ」（楠正成）　上記の５つの理念を実践していくことが、安岡氏の説く「道の実践」であると思います。孔子もその道の実践を次のようの順序だてて教示しています。（本文）子曰わく「之を知る者は、之を好むものに如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」（読訳）孔子が語られた、「知るものは、好んでやる者には及ばない。好んでやる者は、楽しんでやる者には及ばない。」また、「君子は、博（ひろ）く典籍を学んで知見をゆたかにし、これを引きしめるのに礼を以てすれば、人の道にそむくことはないであろう。」ともありました。楠正成公の「誠（良心）」こそ、今の人々が大事にして、他人を思いやる心を持つことが大事なように思います。考えが甘いかもしれませんが、犯罪を取り締まる事も大事ですが、教育を重視し、事件の起り難い社会通念を広げる事が、近い道と思っています。＊参考資料：伊與田覺著「仮名論語」</description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Sun, 04 May 2008 09:00:51 +0900</pubDate>

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<title>（師友）話せる人の中で、対話が持続する人は少ない</title>
<description>（師友）話せる人の中で、対話が持続する人は少ない 　人間、気が合う、気が合わないと言いますが、２人でじっくり話しをするとした時、1時間、2時間はどうにか話が続くが、半日、一日、二日と話し続けられる人は、そうそう居るものではないように思います。 　今年１月に、バンクーバーの友人家族が、実家の和歌山に帰っていたので、遊びに行ったのですが、滞在時間、昼過ぎに着いて、3時ごろ分かれたのですが、寝る（5時間くらい）以外は、ずーっと話し続けていました。2年ぶりに会ったのですが、まったく話しが切れることなく、日本人同士の妻同志は、延々しゃべっていました。 私と、カナダ人の夫同志は、片言の英語、日本語で、やっと酒が入ると、建築技術者同士もあって、話が始まり、深夜まで語っていました。私も2年ぶり、互いの気持ちが合い、いつも別れ際に、互いに英語、日本語で話そうと言いますが、5年経っても一向に上達しません。 今読んでいる、安岡正篤先生の著書「人間学のすすめ」のに、江戸期の儒学者も細井平州のことがあり、その一節に、友人の南宮大秋との久々の再開の場面が紹介されていました。 （本文より） ・・・久しぶりに会うて、二人が部屋で話し始め、（講義は）休講にしてしまって、朝から晩まで明けても暮れても、（十余日連続で）二人で話し込んでいるものだから、「どうも久しぶりに親友に会うて、ちょっと先生方おかしくなった」とみんな心配した。というぐらい嬉しかったとみえる。これにも両者の人物が彷彿として現れている。 人間は案外話せぬものですよ。「あいつは話せる」とよくいうが、話せぬ人間は実に多い。明けても暮れても、倦（う）むことを知らず話し合えるというのは、よくよくの間柄であり、よくよくの人間同士です。どうせこの両人ですからつまらぬ俗談じゃないでしょうね。世間話も入るでしょうけれども。どうも誠に羨ましい限りであると感じ入りました。（中略） 　とても良い話と思いまし、羨ましく思います。 私は、時間を見つけては、興味ある方の話を聞きに、講演やセミナーに参加するのですが、私と似たようなことを、南九州の指宿を拠点に、活動をしている人がいます。 　この人とは、始めは建築の話でであったのですが、その年に3度会い、時間にすると丸一昼夜くらい話をし続けました。それ以来、事あるごとに行き来し、会えば３時間も４時間も平気で話続ける関係が出来ました。この便利な時代ですが、日常は殆ど電話等での情報交換はしませんが、以外に同じようなことを考えていることが、会った瞬間に理解でき、後は更に先の展開の話で延々会話が続きます。不思議な縁としか思えませんが、年も上ですが良き友人の一人です。 　今、秋に向けて新たな試みを、指宿の友人と進めています。その話しも、電話で１分内容を話し、一言「そりゃ、おもしろい」で決まり、後の話はなし。次に会うのは、多聞、九州の仲間が集まる７月になります。 　話せる人は、数はそう居ませんが、とても気が許せ、互いの思いをぶつけ合える人なのかもしれません。 ＊参考資料：安岡正篤著書『人間学のすすめ』（３．「人間の師」細井平州とその師友） </description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Fri, 25 Apr 2008 19:47:51 +0900</pubDate>

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<title>教育は大根づくり、多様な場面での適応力</title>
<description>教育は大根づくり、多様な場面での適応力　「人間学のすすめ」なる本が、先輩の寺の蔵書にあり借りて、少しづつ読んでいます。その一節に、江戸期の学者渋井大室の「教育は大根づくり」の話を見つけました。（本文）　・・教育は、菊作りではなく、菜作りと同じだと思う。菊作りというものは自分の好み合うように丹精して特殊な花を咲かせて、自分の気分に入らんものはみな捨ててしまう。葉っぱ大根をつくるものは、これに反してそんなものでもいい、うまく食さえすれば良いんで、これはきわめて万人に向く有用な食料である。教育は、菊作りのような特殊な人間を作るんじゃなくって、どんな人間でも、いい人間になるように仕上げることだということをいっている。（中略）（本文）　イギリス教育界の元老モバリー卿という人もはっきり言うておりますが、ケンブリッジやオックスフォードの学問は、いろんな知識や技術の詰め込みではなくって、とにかくその人をどんなところに置いて、どんなことをさせても、容易に人から信頼され、そのことを習熟することのできるような心構えの人を作ることである。（中略）　博識多技でなくとも、その場に捉えられて。問題を与えられたら、何でもこなせて、人から尊敬信頼されるような人柄を作っておく、心構えを作っておくことが一番大切な問題です。（中略）　二つの教育理論は、時代を越え、地域を越えたところでも、人間を育てる基本は何処も変わらないという偉人の教えと思います。　西郷隆盛の人気は、落ちることなく日本人の心にいつまでも止まることと思いますが、西郷隆盛は不思議な人で、自分が置かれた立場でいかに働くかをいつも考えていたとことを知りました。兵は兵士らしく、隊長は隊長らしく、将軍は将軍らしく、明治では元勲は元勲らしく、その立場で何をするべきかを考え続けたひとかもしれません。　また、西郷隆盛と3日会うと、離れなれない気分になるとありました。モリバー卿の教示のように、多様な場所でどんな仕事ができるか、常に最良のことを考えていたのかもしれません。　西郷隆盛の遺訓を集めた「西郷南州翁遺訓」の中に語られている、幕末の長州の英雄久坂玄瑞が「禁門の変」陣中で、指揮を執りながら部下に語った言葉に「無事は有事の如く、有事は無事の如く」があります。戦況を常に状況を聞きながら、心静かに本を読んでいたとありました。西郷隆盛は、その様子を「久坂先生は、お地蔵さんのようでごわす」と語ったと言います。　最後に、「西郷南州翁遺訓」を記録した庄内藩の若者たちが、「学問は何のためにするのですか」の問いに対しいて、西郷隆盛は、次のように答えたとありました。現代風に言うと、「予期せぬことに直面したときに、臨機応変に対応する能力を養うこと」と語ったと言います。　これに似た話しに、三国志の魏の曹操も、戦地に行く折には、いつも古典の本を数冊携えて出かけたとありました。曹操の訓示の一つが、「列士暮年　壮心已まず」。その時代に、名を残す人々は、常に社会変化に合わせて、自分を高める努力をし続けたのかもしれません。　＊参考資料：安岡正篤著『人間学のすすめ』</description>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Tue, 22 Apr 2008 19:49:56 +0900</pubDate>

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<title>（徳が上、知が下）人間の本質に二つある。自分を磨く。</title>
<description>（徳が上、知が下）人間の本質に二つある。自分を磨く。　昭和の東洋哲学の偉人、安岡正篤先生の著書「人間学のすすめ」に一説に、幕末の名君二人、薩摩の島津斉彬公と福井の松平春嶽公のお国自慢の会話が載っていました。（本文より）　斉彬公が、「わたしのところにはちょっと各藩を見渡しても得がたい偉い人物が家来に居る」と言われた。　すると俊嶽公が、「何家といわれる者の出身か？」と聞いた。　斉彬公は「そんな身分のものでなく、軽輩です。」と答えた。　すると春嶽公が、「よっぽどい非凡な才能や技芸の者か」と聞かれた。　斉彬公は、「別にこれという才能もありません。それは、偉大な仁者である」と答えた。とありました。人物を見抜く、斉彬公もまた偉大な名君と思います。　西郷隆盛や楠正成という人物は、先端技術もしらず、あまり秀才でもなかったのですが、非凡といえば、「徳（徳性）」を体現していた人物と思います。　人間には、二つの内容（要素）があります。　一つは、知識だとか、技術だとか、あればあるほど結構ですが、しかし無くても人間として差しつかえなく生きることができます。　もう一つは、徳（仁）とか徳性とかです。これは、人が人を愛する、人に尽くす、人に報いる、あるいはは清いとか、真面目とかです。質実である。反対は、愛さない、報いることを知らない、不潔、不真面目では、人間ではなくなります。　　この仁（徳）をどうしたら、身に付けることができるか、論語にその実践の教示が載っていました。（本文、転載）顔淵、仁を問う。子曰わく、己に克ちて礼に復（かえ）るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る。而して人に由らんや。顔淵曰く、請う、其の目を問わん。子曰わく、礼に非（あら）ざれば視ること勿れ、礼に非ざれば聴くことなかれ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。（解説）　顔淵が、仁の意義をたずねた。「私利私欲に打ち勝って、社会の秩序と調和を保つ礼に立ち戻るのが仁である。たとえ一日でも己に克って礼に帰れば、天下の人も自ずから仁になっていく。その仁を行うのは、自らの意志によるべきで、他人の助けによるべきでない。」顔淵が更に、たずねた。「礼にはずれたことは視ないように、礼にはずれたことは聴かないように、礼にはずれたことは言わないように、礼にはずれたことは行わないようにすることだ」（感想）　日々、生きていると仕事にかまけて、約束を忘れたりすることがあります。目の前のことで、一生懸命で、安易に約束をして、行けなかったりしたります。誠の恥ずかしいことですが、そんな時に心は動揺します。　仁者は、常に平常心を保ち、相手を思いやるゆとりがあるように思います。「愛し、尽くし、報いる。」なかなか出来ないのが、一般人ですが、今日の気付きを忘れないように、顔淵が、この問答の最後に語る言葉に、「この教えを、一生をかけて実行して行きたい。」と孔子に誓っています。　論語読みの論語知らずと言われないように、少しでも仁の心を忘れずに、日々反省をしつつ、実践していくことが大事と思います。今の中国の指導者たちに、「仁」の心が必要な気がします。</description>
<link>http://utorongo.otemo-yan.net/e77651.html</link>
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<category>安岡正篤語録</category>
<pubDate>Thu, 17 Apr 2008 00:05:37 +0900</pubDate>

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