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<title>宇土・親子論語教室</title>
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<description>宇土市で始まった、親子（大人と子ども）で論語の素読と、教えを学ぶ教室。そこで学んだ言葉を紹介します。『論語』 『大学』『中庸』『孟子』『菜根譚』等説明 　ほとんどの日本人は、「論語」と言う言葉を聞いたことがあるとおもいます。しかし、中身に関しては、深く知らないと感じます。私もそうですが、日々の生活の中にその思想は深く根付いていると言われます。 [影響を受けた人物] 聖徳太子、菅原道真、二宮尊徳、佐藤一斎、梅田潜庵吉田松陰、佐久間象山、横井小楠、西郷隆盛、山田方谷、渋沢栄一、安岡正篤、木内信胤、他。『教室の開催日』毎月第一土曜日、午前１０時から、『会場』熊本県宇土市の中央公民館（宇土市民会館前）</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Fri, 15 Dec 2006 07:21:09 +0900</pubDate>
<lastBuildDate>Sun, 01 Jun 2008 16:18:31 +0900</lastBuildDate>
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<title>学問や技術を身につけるより、重要なのは人格の完成</title>
<description>学問や技術を身につけるより、重要なのは人格の完成　重要なのは人格の完成　（呻吟語） 　広く学問を窮める。すばらしい技術を身につける。これはこれで一つの長所だと言ってよい。だが、人格の形成に終わりがないのと比べれば、これらのことはある段階にまで達すると、そので終わってしまう。 　重要なのは、立派な人格の形成、これである。 　一人前の社会人となるためには、能力と人格の両面にわたって自分を鍛える必要がある。呂新吾に言わせれば、能力を身につけるのはまだやさしい。むずかしいのは人格を磨くことだという。現代の日本では、人格形成の面がおろそかにされている嫌いがないでもない。（守屋洋訳「申吟語」第2章教養より） （感想） 　人格者とか、徳のある人等々、現代でも使いますが、それを身につける手段は、簡単に至らないと思います。それぞれの道で、苦労して少しづつ、地道に積み上げて行くしか方法はないように思います。＜コミュ＞・呻吟語（しんぎんご）を読む  http://mixi.jp/view_community.pl?id=3045354</description>
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<category>呻吟語（しんぎんご）</category>
<pubDate>Mon, 16 Jun 2008 13:16:10 +0900</pubDate>

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<title>切れ味は内に秘める</title>
<description>切れ味は内に秘める 　鋭い切れ味は、十分に磨いておかなければならない。ただし、切れ味は内に秘めて、おっとりと構えている必要がある。昔から、禍えおこうむるのは、十人のうち九人が切れる人物であった。おっとりした人物で禍をこうむったものは一人もいないのである。 　ところが近ごろの人間は、ひたすら切れ味の鈍さだけを心配している。これは愚か以外のなにものでもない。 　人間には、四つのタイプがあるのだという。 　　かしこかしこ　：賢いことを表に出し続ける 　　かしこあほう　：賢くみせて実は中身が無い 　　あほうかしこ　：無知・無関心を装い、実は賢い人間 　　あほうあほう　：全くの無知、無関心 　言うまでもなく、理想は「あほうかしこ」である。ここで呂新吾が語っているのも、これに近いかもしれない。 （守屋洋訳『申吟語』、第2章：修養について） （感想） 　さっそうと、いつも先頭を走り、ニュースのなる人たちがいます。人の話題・アイデアをつまみ、それを利用して人々を魅了する人たち、社会を上手く泳ぐ人たちと言えるかもしれません。 　でも、長い年月を経て行くと、だんだん中身が見えてきます。信用とは、そんなものかもしれません。ライブドア、グッドウィル、かつてあったものといえば、ねずみ講、豊田商事、もそうかもしれません。 　「あほうかしこ」、先人たちの知恵を時々は、読み返すゆとりこそが大事なことのように思います。 </description>
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<category>呻吟語（しんぎんご）</category>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2008 06:54:27 +0900</pubDate>

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<title>幸福とは、生き抜いてみなければ見えて来ない。</title>
<description>幸福とは、生き抜いてみなければ見えて来ない。 今読んでいる有名人の語る『幸福論』から、冒険家の三浦雄一郎氏の言葉が印象に残った。 ・苦しみ抜いてこそ見えてくるものがある 　生きることは苦しい事です。死ぬのはある意味楽な事です。悩み、もがき、苦しみながらも私たちは生きている。何とか生き抜いてやろうと必死になっている。それが人間の姿ではないでしょうか。幸福とは何か。その答えは、生き抜いてみなければ見えて来ない。苦しみ抜いてこそ見えてくる。 （三浦雄一郎「人生は、ゆっくりと眺めながら歩く方がいい」） 　三浦氏は、70歳を越えてエベレスト（チョモランマ）登頂に挑戦した方ですが、スキーヤーとして成功しながらも、さらに困難に挑戦する言葉の中で出てくる、「いつでも夢中になれるものがあるか」の、問いがあるように思います。 『申吟吾』の中に、次の一説があります。 「困難な課題から先に取り組む」 　まず困難な課題に取り組み、成果は後でゆっくり楽しむ。これこそ、人格を完成させ、仕事を達成する第一の秘訣である。この方針をしっかりと胆に銘じて、あくまでも堅持するならば、いかように非難をあびようとも、けっして動揺する事はない。かりに、一月続け、一年続けても、効果はないかもしれない。しかし、くじけかいで堅持すれば、長いあいだには自然に成果が期待できるのである。 　このように、修行というのは段階を追って一歩づつ完成をはかり、効果が表れて来るのをじっくりと待たなければならない。 （守屋洋訳『申吟吾』、第1章：人間について） 　三浦氏は、５年の準備期間を経て、エベレスト登頂に成功するのですが、成果を早く求めがちな現代においても、人の幸福、さらに周りからの評価とは、長い年月の行動でしか真価は解からないのかもしれません。 　人生指南の書と言われる「申吟吾」には、困難に直面した時思い出し、気持ちを新たにしてくれる気付きの言葉がたくさん詰まっているように思います。</description>
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<category>呻吟語（しんぎんご）</category>
<pubDate>Fri, 13 Jun 2008 06:25:12 +0900</pubDate>

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<title>「欲望は前へ、道理は後ろへ」「本物ほど分かり易い」（申吟語）</title>
<description>「欲望は前へ、道理は後ろへ」「ほんものほど分かりやすい」（申吟語） 　今日は、梅雨空の晴まで、けっこう午後は夏の気分を味わいました。大雨はいけませんが、やはり日本には、梅雨が必要なのかなと思いこともあります。 　さて、今日から新しい言葉のシリーズを始めます。中国古典で、魅力を発する「申吟語（しんぎんご）」は、呂新吾著作。これを現代訳にしている、守屋洋氏の解説から抜粋を教会します。 （冒頭の解説から） 　読む人の立場や年齢に応じてさまざまな読み方ができるし、また、人生の指針や心の拠り所のようなものを幾らでも引き出すことができる。 第１章　人間について ・道理はつねに後ろへひっこみがち 　欲望は、前へ前へと進もうとする。これに対し、道理は、後ろへ後ろへ退こうとする。自分を練磨しようとする者は、このことをしっかり刻みこまなければならない。 ・ほんものほど分かりやすい 　道を深く体得している人物ほど、語ることがわかりやすい。むずかしいことを言う人は、道を体得することがまだ浅いのである。 （注）文章にしても同じことが言える。読んでもよく意味の汲みとれない文章は、本人の理解がまだ不十分なのだろ決めつけられても、致し方ないかもしれない。 　以上の言葉は、短いですがとても分かり易い言葉になっています。「欲望は前へ、道理は後ろへ」「道を体得した言葉は短い」。 　今日、上記の言葉に近い体験をしました。食料品開発の成果を一生懸命語ってくれるのですが、真意がこちらに伝わらないのです。私自身試食もしました。現物を知っているのですが、今後どういう風に展開をしたいのか、私に何を求めているのか、心動くものがないのです。 　私は、最高の人物と場を提供しました。そこを見て、違った方向も探りたいと言うのです。それを私にまた相談する心境とは、なにか・・・ 　今日の申吟語の言葉を読んで、ハッとしたのが、その商品自体を体得していないように思えてきました。これはとても良い、色々なデーター、学者の話し、関係ない今後の企業家たちの方針を語ったり、子供たちの食の危機を語ったり、・・・、で、あなたは何をしたいと聞くと、更に話題があっちこっち飛ぶ。 　ほんものほど分かりやすい：正に感じることは、開発者自身が、その商品のコンセプト、コマーシャル方針、そして商品が社会をどう変えるか、検証が出来ていないことの自信に無さと感じます。 　 　「道理」「ほんもの」は、深い洞察と、自分自身で体得していないから、心を動かさないと気づかされます。吉田松陰の言葉に、次に一説があります。 　「知識は理解し、行動に起こしてこそ知識」（吉田松陰） ＊参考資料：呂新吾著「申吟語」、現代語訳：守屋洋 </description>
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<category>呻吟語（しんぎんご）</category>
<pubDate>Thu, 12 Jun 2008 22:30:30 +0900</pubDate>

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