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<title>宇土・親子論語教室</title>
<link>http://utorongo.otemo-yan.net</link>
<description>宇土市で始まった、親子（大人と子ども）で論語の素読と、教えを学ぶ教室。そこで学んだ言葉を紹介します。『論語』 『大学』『中庸』『孟子』『菜根譚』等説明 　ほとんどの日本人は、「論語」と言う言葉を聞いたことがあるとおもいます。しかし、中身に関しては、深く知らないと感じます。私もそうですが、日々の生活の中にその思想は深く根付いていると言われます。 [影響を受けた人物] 聖徳太子、菅原道真、二宮尊徳、佐藤一斎、梅田潜庵吉田松陰、佐久間象山、横井小楠、西郷隆盛、山田方谷、渋沢栄一、安岡正篤、木内信胤、他。『教室の開催日』毎月第一土曜日、午前１０時から、『会場』熊本県宇土市の中央公民館（宇土市民会館前）</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Fri, 15 Dec 2006 07:21:09 +0900</pubDate>
<lastBuildDate>Sun, 01 Jun 2008 16:18:31 +0900</lastBuildDate>
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<title>（何を学ぶか）３０代：実行力の時代、４０代：判断力の時代</title>
<description>（何を学ぶか）３０代：実行力の時代、４０代：判断力の時代「４０代にやっておくべきこと」（鈴木健二著）より～その２～ 　３日前に書いた、上記の本から感じたことを再度書きます。   http://mixi.jp/view_diary.pl?id=922378094&amp;owner_id=2182841・３０代、４０代、５０代　人間は年を取るにつれて、記憶力がどんどん失われて行きます。４０代前半ではあまり自覚がないのです、後半になると、一つのことがなかなか思い出せないようことが時々起ります。　しかし、人間としての社会的能力が駄目になるわけではありません。４０代になると、サラリーマンなら何人かの部下があり、今までは自分でしなければならないことを、部下が分業していてやってくれます。　その代わり、課長ならば部下の名前を全員知っておくことはもちろんですが、社長は会社全員の名前を知らなくても、人事部がやってくれます。つまり、不必要なものまで頭に入れなくてもいいようになります。自営業ならば、若い仕事仲間に協力をしてもらったりして、判断や決断の部分が重要な仕事になります。　４０代になると、このエキス（判断の材料）の部分だけを覚えておくことは多くなり、問題はこれをどう扱うかなのです。鈴木健二氏の言葉に、「４０代の男を称して゛分別盛り゛という」とあります。分別というのは、ものわかりがいいだけではなくて、物事を広く見渡して、あれこれを判断する力に秀でていることを指しています。中年の男が案外若い女性にもてるのは、彼女達が持ち合わせていない判断力を、男が示してくれるからで、そこに年齢や風貌や経験が重なりあって、信頼にまで高められるのです。　考えると、４０代は判断力の時代と思います。そして３０代は実行力の世代、５０代以後は総合力の時期と思います。　「判断力＋行動力」に着いて鈴木氏の書かれた一節を紹介します。（本文より）　本能寺の変を聞いた秀吉は、直ちに毛利と和睦をして山陽道を引き返し、山崎の合戦で秀光を倒して、天下人への名乗りを上げている。あの時には、徳川家康にも柴田勝家にも滝川一益にも同じチャンスはあったのである。彼らは京都へ向かうことはしたのだが、途中で秀吉の大勝を聞き、あきらめて領国へ帰ってしまったのである。　秀吉にしても、はじめから勝算があったわけではない。豪雨の中を泥まみれになり、身体は綿の如く疲れ果て、秀吉自身も居眠りして何度も落馬しながらの強行軍であったのだ。　しかし、水攻めをしていた備中高松から合戦をした山崎までの間に、様々な手を打ちながら進み、それが奔流の如き勢いとなったのである。ナポレオンのロシアまでの快進撃もこれと同じことである。　短い時間のうちに考えをまとめ、それを直ちに実行する。これが判断力である。知っているだけで何も行わなかったら、それは何も知らなかったと同じである。（中略）　吉田松陰の訓示に「知識は理解し、行動に起こしてこそ知識」があります。正に実行したのは秀吉、タイミングはずしたのは他の武将と思います。　また、江戸後期の儒学者、斉藤一斎の教示「知識、見識、胆識」の中で、胆を据えて行動に移してこそ知識は生きると教えました。　４０代の訓練・試練は、出来事に対しどう判断し、行動するかを限りなく続けることが、人を育てるのだと思います。　もし５０代以降の方が読まれた、ぜひこの件にアドバイスを頂けるとありがたいです。「南部九州市長サミット」プレイベント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 　「オール全自動ビニールハウスの見学会」 　日　時　２００８年９月２１日（日）１０：００～１４：００ 　場　所　熊本県宇城市三角町　高木ファーム 　参加費 ５００円（昼食会　１，５００円程度） 　集合場所　JR三角駅前の元フェリーターミナル駐車場 （現地見学は１時間半程度。昼食交流会も開催します） 　事務局　〒862-0913熊本市尾ノ上１丁目48-6　リブズ菊池１Ｆ 　　　　環境共生施設研究所内　担当　野口修一（NPO法人ﾌｭｰﾁｬｰ500理事） 　　　　Eメール：aande@lime.ocn.ne.jp　 　＊昼食会の参加は、事務局までメールで事前申し込みが必要です。 </description>
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<category>意見・異見</category>
<pubDate>Sat, 06 Sep 2008 09:26:49 +0900</pubDate>

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<title>（教育と）基礎学力は中学で十分（教育を考えるMLより）</title>
<description>（教育と）基礎学力は中学で十分（教育を考えるMLより）～教育雑感～　　　　　　　　　　　　　　中学生の９割以上が高校へ行く時代になって久しい。長い間、進路の相談で生徒と話し合ってきたが、最近気になることがいくつかある。そのひとつが、「公立高校しか受験させないと親が言っているのですが、公立に受かりますか」というもの。私立高校への進学は、経済的に無理だと考える保護者が増えているということだろう。経済格差が教育格差となり、格差の連鎖が始まりつつある。　　ところで、いささか極論になるかもしれないが、基礎学力は中学までで十分であるとわたしは思っている。高校の学習は、大学へ入るためには必要かもしれないが、その目的がなければほとんど身についていないといっても言い過ぎではない。あなた自身のことを考えてみてほしい。高校の学習がその後の生活や人生にどれほど役にたっただろうか。もちろん科目やその後の職業によっても違うのだろうが……。　　受験学力も大学に入ってしまえば、そのほとんどが消えてしまう断片的知識丸暗記の「剥落（はくらく）学力」で、人生でかろうじて役だったのは学歴や資格だったのではないだろうか。ちなみに、マイナスの数にマイナスの数をかけてどうしてプラスになるのか、分数の割り算は割る数の分母、分子をひっくり返してかけるのはどうしてなのかと子どもに聞かれてもうまく説明のできる保護者は少ないだろう。　　難しい数学を知らなくても、世界史の細かいことを覚えていなくても、多くの人は、仕事をし、家族と共に毎日しっかり生きている。ならば、学校卒業後の人生においては、受験学力や高校の学習よりももっと大切なものがあるということではないだろうか。わたしは、それらを次の３つにまとめている。　　第１は、社会とつながる能力である。　自分の感じていること、思っていることを話したり文章に表現できること。また、相手の話をじっくり聞いて理解し共感できること。笑顔で人と接することができるだけでも接客業では貴重な能力であり、社会の中で生きる力となるだろう。　　孤高に生きるのも、またひとつの生き方だが、やはり人は社会の中で、あるいは仲間の中で成長しながら生きていくものではないだろうか。人は絶対的な孤独の中にいるからこそ、誰かとこころをつなげたいと願うのである。そこには学歴など関係なく、大事なのは人それぞれの精神のありようなのである。　　第２に、ものの見方・考え方のしっかりしていること。　自分と社会を取り巻く状況が激変していくこういう時代においては、知識や受験学力よりも、ものの見方・考え方のしっかりしていることのほうがはるかに重要ではないかと思う。　この世界はどのような構造をもっているのか（世界観）、そしてその世界でどのように生きていくか（人生観）、というものの見方・考え方、つまりは科学や哲学に裏付けられた「わたしの価値観」を身につけていることが重要である。古い言い方をすれば、主体性が確立できているということだろうか。　　これは、存外難しいことである。学校では知識を教えても、智恵を働かせる方法は教えない。最近は「考える力」の大合唱であるが、その辺の反省からではないか。「自分探し」が、ブームのようになっているそうだが、「答え」は足下にある。自己の経験と感性で確かめながらひとつひとつを丁寧に学ぶこと以外に「答え」に至る道はないと思う。　　第３に、人生を楽しむ術（すべ）を知っているか否かということである。　もともと日本人は謹厳実直、滅私奉公を美徳とすることから人生を楽しむという感性をあまり持ち合わせなかったような気がするのだが、最近は自分なりの人生の楽しみ方を考える人が多くなったようだ。わたしは大賛成。人生には、すべきこと（使命）もあるが、したいことを楽しむ美意識がなくてはつまらない。（中略）　　人生の楽しみ方は人それぞれ。どんな小さな事にも楽しみを見いだすことはできる。それが美意識である。だから、そこには学歴も学力も関係ない。人生を大いに楽しんで学歴社会など粉砕しようではありませんか。（以上、教育に関するMLより）＜気になる言葉＞・「答え」は足下にある・自己の経験と感性で確かめながら丁寧に学ぶこと・人生の楽しみを見いだすこと「美意識」～それぞれの人生観～＊最後までお読みいただきありがとうございました。（合掌）</description>
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<category>意見・異見</category>
<pubDate>Fri, 20 Jun 2008 12:59:34 +0900</pubDate>

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<title>（教育）正解は一つじゃない（萩本欣一）</title>
<description>（教育）正解は一つじゃない（萩本欣一）　今日から、娘が中間テストと言って出て行った。私もかつて高校生だった時のことを思い出す。テストで良い点数を取る、ほめられる。確かに点数が良いほうが、進学の可能性があるだろう。社会人になり、色々な人を見てきた。先輩たちは、一人ひとりの人生を歩んでいます。　今読んでいる「４７人の幸福論」に、タレントの萩本欣一氏の一節があり、一部を紹介します。（ほとんど、転載文ですが）少々長文の日記です。～正解は一つじゃない～（萩本欣一）世の中はすぐ正解を作りたがる。正解はこれしかないと決め付ける。問題が解けたら１００点で、解けなかったら０点。そして０点の子はダメな子と決め付ける。０点なんてこの世にはないと僕は思う。僕だったら、問題がぜんぜん解けなかった子供にも５０点はあげる。だって、全く答えが書けなかったということは、少なくともカンニングをしていないということ。ずるいことをしなかったということ、それはとても大きな価値で、世の中ではそのことの方が役に立ったりするものだ。正解はこれしかないと決め付けるから辛くなる。これが幸せだと決め付けるから、そこにたどり着けない人が苦しむ事になる。人生は台本通りには進まない。その人なりのアドリブがあるから楽しい。（PHP編、４７人の『幸福論』より）心が、ふっと温かくなる言葉と思いました。</description>
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<category>意見・異見</category>
<pubDate>Fri, 20 Jun 2008 12:57:46 +0900</pubDate>

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