人の道「忠恕」(孔子)、「徳ある人になること」(曽野綾子)

ノグチ(noguchi)

2008年08月28日 21:57

人の道「忠恕」(孔子)、人生の目標「徳ある人になること」(曽野綾子)

 今日は、久々に論語の言葉から、日々の暮らしを考えました。


(仮名論語)

 子曰わく、「参や、吾が道は一以て之を貫く。」
 曽子曰く、「唯(い)。」
子出ず。門人問うて曰く、「何の謂(いい)ぞや。」
曽子曰く、「夫子の道は忠恕のみ。」


(解  説)

 孔子先生が言われた、「参(曽子の名)よ、私の道は一つの原理で貫かれているよ」
 曽子先生が、「はい」と、歯切れ良く答えれた。他の門人が「どういう意味ですか」と問うた。
 曽子先生が答えられた、「(孔子)先生の道は、忠(まこと)と恕(おもいやり)だと思うよ」

 
(感  想)

 孔子の教えの真髄がここにあると思います。「忠」と「恕」、
 忠:誠を尽くすこと、
 恕:思いやり・哀れみ、相手の境遇と共に居ると言う気持ち
忠とは、自分の良心に正直に行動する事を私は、勝手に理解しています。
恕とは、様々な厳しい境遇にある人たちに思い馳せること、側に寄り添うことだと思います。

 ここ数日、古本屋で見つけた曽野綾子氏のエッセイ集「中年以後」なる本を読んで、今日ちょうど最後の一説を読んだのですが、最後のテーマは、
 「人間を止めない」-徳ある人になること-
とありました。このタイトルは、曽野綾子氏の詩のタイトルでもあるのですが、その詩を読み人間の成長が限りなく、死ぬまで続く事を教えられます。

(本文より)

「人間を止めない人」-曽野綾子-

伸びたパーマの根っこから
染め残した白髪が無残に伸びているから。

ああ、あの人は女を止めたのだな。
だから灰色の枯葉模様のぽりせうてるのちぢみのブラウスを着て、
らから丈の短いズボンをはいて、
だからくたびれた靴を内股にして、
座っているのだな。

ところが突然、赤子を胸におぶった若い女が
ちょっとはなれたところに向こうに向きに立ったのに、
無関係のはずの女を止めた人が、
つっと立って行って若い女に席を譲った。

女を止めても、人間を止めてはいない人。

男性や同姓に目から見ても、女性として何のお洒落もなくなった人でも、人間を止めることさせしなければ、数秒後にはその輝きはあらわになるものである。そして往々にして皮肉なことに、外面的な魅力が失せた後にこそ、人としての魂の栄光だけは強烈に前面に出るのである。(中略)


 曽野氏の「徳ある人になること」こそが、人間として完成期に目指す生き方ではないかと思います。孔子にしろ、曽野氏にしろ、人の輝きは、外見や派手な言動よりも、静かに人を思いやる心と、良心に忠実に生きることではないかと思います。

 今日は、孔子の教え「忠」「恕」を、深く考える機会になりました。思いやりと良心、そしてそれを実行する勇気、見返りを求めない謙虚さ、親切を受けたときの感謝の気持ちを忘れないように、日々暮らす事を心掛けたいと思います。

*参考資料:曽野綾子著「中年以後」


<以前の日記>
・(川辺川ダム問題)五年ぶりの五木村と清流川辺川、42年続く政争

・むしろ愚直であれ (菜根譚)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34442257&comment_count=0&comm_id=1186424

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