<知行合一>書を読んで身に行わない者は、ちょうど鋤を買って耕さないのと同じである。〜二宮尊徳〜

ノグチ(noguchi)

2019年03月20日 09:00



<知行合一>書を読んで身に行わない者は、ちょうど鋤を買って耕さないのと同じである。〜二宮尊徳〜

おはようございます。昨夜は遅くまで飲みました。少々お疲れモードですが、朝の登校指導していると、子どもたちから「おはようございます!」と元気な挨拶、こちらも元気回復でした。

さて、数日前から『佐藤一斎一言』の訓示を、毎年一度は読むのですが、今日は、4月28日の訓示です。

(以下、本より転載)

学は諸(こ)れを古訓に稽(かんが)え、問は諸れを師友に質(ただ)すことは、人皆之れを知る。学は必ず諸れを躬(み)に学び、問は必ず諸れを心に問うものは、其れ幾人有るか。(『言志四録』後録84)

【訳】
学問の「学」とは先見の残した教えを今に比べ合わせることであり、「問」は師や友に問いただすことであるというのは、誰でも知っている。しかし、「学」といってこれをこれを必ずわが身をもって実行し、「問」といってこれを必ずわが心をもって反省するという人は、果たして何人いるだろうか。
(以上、『佐藤一斎一日一言』より)

孔子も「学んで行わないのは、学んでいないと同じ」と語っている。昨日の熊日夕刊のコラム「幕末肥後意外伝」に、幕末のの細川藩の藩校「時習館」の実学党と学校党との論争のことが取り上げてあったのですが、横井小楠先生が「勉強漬け(学問するだけ)」を批判している。小楠先生は、“学ばざれど、実行しなければ学問ではない”と実学の意味を語っていた。(熊日夕刊より引用)

『佐藤一斎一日一言』の解説文に、二宮尊徳の訓示も紹介されえいる。

◎二宮尊徳は「書を読んで身に行わない者は、ちょうど鋤を買って耕さないのと同じである」と言っている。
(以上、本の解説文より)

陽明学の訓示にも「知行合一」がありますが、横井小楠先生の率いた学校党も、陽明学に影響を受けていたと言われる。王陽明が始祖である陽明学は、現代にも通じる実学の考え方と思います。






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