2018年06月06日
<人から学ぶ準備とは>学問をしなければ、人を観る目ができない。識見・眼識が生じない。〜安岡正篤〜
<人から学ぶ準備とは>学問をしなければ、人を観る目ができない。識見・眼識が生じない。〜安岡正篤〜
私は今年(あと数日)で60歳になります。昨年から、中学と高校の還暦同窓会の準備で、どちらも準備実行委員会の集まりがあるのですが、中学は、50歳と55歳で同窓会をしました。高校は、48歳の時に大同窓会(高校卒業生全員)の幹事年の前に2度同級生の集まりをして以来の大きな集まりとなります。
12〜13年ぶりに会う同級生、男子も女子もそれなりの歳となり、サラリーマンの方は来年春が定年の年、自営業も仕事に関しては生涯現役ですが、家庭の事情で、一段落つく時期になっているようでした。
今朝の朝読書は、安岡正篤先哲の訓示録『安岡正篤一日一言』の6月6日・7日の訓示は、
・眼識
人間というものは妙なもので、内省を深めるようになると中味ができてきますから、自(おのずか)ら風采、態度が変わってくる。即ち大分できてきたなということがわかる。(中略)
あいつは財産がなんぼあるとか、何の役をしておるとか、いうようなものつまらぬことは気づくが、人間そのものについては全くわからない。
(以上、『安岡正篤一日一言』6月6日の訓示より)
中学の還暦同窓会は、先週末開催され、高校の還暦同窓会は来年の1月3日に開催されます。
中学の還暦同窓会は、集まりは5割弱で、内女性が6割の参加者でした。50歳の同窓会から何名が亡くなった悲しさはありましたが、参加者は同程度でした。
高校は、これから半年間、住所調べも30数名ありますが、準備会での会話もまた楽しみな時間になっています。
その人を見る目は何で身につけるか、安岡正篤先哲は、
「即ち観る方にも学問がなければならぬ。学問をしなければ、人を観る目ができない。識見・眼識が生じない」
と訓示の中で語っておられます。要は、自分自身の学びが大事ということだと思います。
*参考資料:安岡正泰編著『安岡正篤一日一言』(致知出版社)
私は今年(あと数日)で60歳になります。昨年から、中学と高校の還暦同窓会の準備で、どちらも準備実行委員会の集まりがあるのですが、中学は、50歳と55歳で同窓会をしました。高校は、48歳の時に大同窓会(高校卒業生全員)の幹事年の前に2度同級生の集まりをして以来の大きな集まりとなります。
12〜13年ぶりに会う同級生、男子も女子もそれなりの歳となり、サラリーマンの方は来年春が定年の年、自営業も仕事に関しては生涯現役ですが、家庭の事情で、一段落つく時期になっているようでした。
今朝の朝読書は、安岡正篤先哲の訓示録『安岡正篤一日一言』の6月6日・7日の訓示は、
・眼識
人間というものは妙なもので、内省を深めるようになると中味ができてきますから、自(おのずか)ら風采、態度が変わってくる。即ち大分できてきたなということがわかる。(中略)
あいつは財産がなんぼあるとか、何の役をしておるとか、いうようなものつまらぬことは気づくが、人間そのものについては全くわからない。
(以上、『安岡正篤一日一言』6月6日の訓示より)
中学の還暦同窓会は、先週末開催され、高校の還暦同窓会は来年の1月3日に開催されます。
中学の還暦同窓会は、集まりは5割弱で、内女性が6割の参加者でした。50歳の同窓会から何名が亡くなった悲しさはありましたが、参加者は同程度でした。
高校は、これから半年間、住所調べも30数名ありますが、準備会での会話もまた楽しみな時間になっています。
その人を見る目は何で身につけるか、安岡正篤先哲は、
「即ち観る方にも学問がなければならぬ。学問をしなければ、人を観る目ができない。識見・眼識が生じない」
と訓示の中で語っておられます。要は、自分自身の学びが大事ということだと思います。
*参考資料:安岡正泰編著『安岡正篤一日一言』(致知出版社)