2008年02月28日

しごかれてこそ「本物」になる

しごかれてこそ「本物」になる
~人格と才能は、艱難辛苦の中で磨かれる ~


「説慧術知(とくけいじゅつち)ある者は恒に疢疾(ちんしつ)に存す」(孟子)


日々、様々な出来事が起き、振り回されることを感じます。その解決に日々走り回っているように思います。しかし、その事件・出来事に対応する苦労が、知恵や人格、更には信用を培って行くと考えています。

東京電力の社長の故松永安左衛門氏の一言があります。

「企業のトップとなるには三つの苦労をしなければならない。
 一つは重病、一つは投獄、一つは浪人、もしくは左遷である。」

 常々、若い財界人に向かって、語ったといいます。上記は、受験勉強ではないですが、松永安左衛門氏が、人生の中で経験したことだそうで、人は困難の中でしごかれて本物になると言う訓示と思います。

 また、孟子の教えにも苦難を乗り越えて、会得することが人を成長させるとあります。

「説慧術知(とくけいじゅつち)ある者は恒に疢疾(ちんしつ)に存す」

 「徳慧」とは、立派な人格、「術知」とは、すばらしい才能。「疢疾」は、艱難(かんなん)。立派な人格とすばらしい才能を併せ持った人物というのは、艱難辛苦のなかで磨かれて来るのだという意味になります。

 でも中には、「疢疾」に押しつぶされる者も多いから、楽観はできません。できれば、「疢疾」を肥やしにし、自分を成長させて行くように心掛けたいものです。
 つまり、恵まれた環境の中で、苦労も知らずに育つのは、人格形成の上から言うと、あまりプラスにはならないという教えと理解しました。

 もし現在、きびしい環境にある人は、将来に備え勉強していると思って、懸命に努力を続けると、人間力がもう一段上がる。厳しさの中でも、志を持ち、常に前向きに問題を処理して行くことだと思います。

 松永安左衛門氏の教えは、苦難を乗り越える度に、人物に磨きがかかり、人物として輝きが増して行くと言うものだと考えました。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 21:53Comments(2)

2008年02月26日

道は近きに在り、しかるにこれを遠きに求む(孟子)

道は近きに在り、しかるにこれを遠きに求む (孟子)

 職場の人間関係が上手く行かず暗い雰囲気が、一人の社員が大きな声で「おはよう」と挨拶を始めた。それまで、朝から挨拶をほとんどしない会社だったのですが、やがてみんなが「おはよう」と声を掛け合うようになり、ギスギスした雰囲気が明るくなったそうです。

 生きて行くうえでの原理・原則というものは、案外に平凡で常識的であることが多い。孟子の教示のように、人間の踏むべき「道」は、実は日常の身近なところにあるのかもしれません。

 ところが人は、この「道」をわざわざ、会社運営の円滑化のノーハウを学ぶため、高い授業料を払い、高遠なる理論を学びに奔走している。そして結局実行できずに終わってしまう。誰にでも実行できてしまも大事なことというのは、例えば朝の「おはよう」と声をかける、そうした平凡で些細なことにあるように思います。
コメントを書く (*の項目は入力必須)


*孟子[ミクシィ]
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=3000248  


Posted by ノグチ(noguchi) at 18:21Comments(0)

2008年02月26日

恒産なければ、因って恒心なし(孟子)

恒産なければ、因って恒心なし(孟子)


 恒産とは、毎日の生活に十分に支えることのできる安定収入のこと。
生活の安定がなければ、人の心はゆらぎやすく、悪事への走りやすい。経済基盤がしっかりしていてこそ、人心の安定もはかれるのだから、世の人々に恒心を期待するならば、まず為政者が人々の暮らしを安定させなければならないという孟子の考えである。

(解説)
 孟子は、人間であるからには恒心をもってほしいと願っているわけだが、この恒心を信念と言う言葉に置き替えれば、そのことが良く分かる。どんな生活に苦しくても、それに流されて信念すらも失ってしまうようでは困る。できれば、晴雨にかからわず常に恒心だけは持ち続けたいものです。

(感想)
 日々の暮らしは、厳しいものですが、志をしっかり持ち、生きる(進むべき)方向は見誤らないようにしたいと思います。
 日々新たな心にして、挑戦を忘れない気持ちで取り組みたいと思います。


参考資料:守屋洋著「中国古典 一日一話」

*孟子[ミクシィ]
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=3000248
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 11:21Comments(0)

2008年02月25日

人の美をつくる(善事を応援)「開運のすすめ」

人の美をつくる(善事を応援)「開運のすすめ」


人の美をつくるとはどういうことをいうのであろうか。
たとえば、玉のような美しいものでも、石の中にまじっているとき、これを放って置け
ば、それはつまらない瓦礫にすぎない。しかし磨けば玉のような美玉となる。

故におよそ人が何か善を行うのを見た場合に、その人の志すところを取るべき善いところがあり、その資質も進歩する可能性があるならば、みなを助けし、或いは成功するまで支持し、或いはそのために免罪をはらしてやり、その誹謗を明らかにしてやり、いろいろと努力してこれを成立させるというようにすべきである。

 一般に、人というものはおおむね自分の同類でないものを嫌がるものである。近傍の村人には善人は少なく、不善人は多いものである。それ故、一つの善事を見れば、人々は寄ってたかって共にこれを誹謗するものである。したがって善人が世間にあってもまた自立して善を行うことは難しい。その上、人にすぐれた人物は、錚錚(そうそう)として優れているけれども、行いを修めず甚だ行動が変わっているから、その欠点を指摘しやすい。

 そのようなわけで、善事は常に敗れやすく、しまも、善人は常に誹謗され、いつも自分を完(まっと)うすることができない。ただ、仁人長者だけは、よく正しく直してこれらをたすけてやることができる。故に仁人長者は一郷に在ってはその一郷の元気を回復することができ、一国に在っては、もって一国の命脈を育てることができる。その巧徳は最も大きいものである。


(解説)
 人が善い行いをしようとしている時、真心から出ている行為なら励まし、手助けし、邪魔をする者から守ってやるべきであろう。その善行の達成によって、その人の存在が美玉のように世に認められることを願うべきであろう。

 だが、善事を行う場合には、誹謗し、中傷する者が必ず出て来てまっとうし難いものである。そこで、その善事が完成するようにするには、一人でも多くの、勇気を持った手助けの人たちが必要となるのである。

 そして、その成果は巡りめぐって援助する人たちも恩恵をこうむることになり、またその人たちのみならず、多くの人たちの開運にともなるのである。


(感想)
 世の人を前にして、善事を行うことはけっこう勇気の要る事ですが、子供の時は素直な気持ちで、手助けの心が湧き出るものです。しかし、大人になると周りの声をきにしてか、なかなか出来ない風景もですが、自分自身も考えている間に、その場面が過ぎ去ってしまった経験もあります。

 日本人は、人の意見をいかに気にするか、考えてしまいます。しかし、周辺や地域に、見識(人望)有る方が居て、面と向かってではなくても、支持を表明し「応援」の行動に出てくれる人がいると、勇気が湧いて来るものと思います。
 これからの社会には、良識ある長老・先輩の応援の声が、地域を元気にする人材を育てる原動力になるように思います。

 永淵氏の「開運のすすめ」を読み、全ての人々が社会改善に関心を持つことの重要と感じた教訓と思います。

*参考資料:永淵道彦著「開運のすすめ」~『陰隲録』に学ぶ~


「コミュニティ」
・開運のすすめ「陰隲録」に学ぶ
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=3058451
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 09:14Comments(2)開運のすすめ『陰隲録』に学ぶ

2008年02月24日

心の余裕を失うな(菜根譚)

心の余裕を失うな(菜根譚)

 今日は、午前中は「論語教室」に参加し、午後は大宰府の「人生の先生」が所有するマンション改装の完成検査に出かけて、先ほど帰りました。
 例のごとく、仕事が終わって、食事をしながら約2時間、人生の教示を頂き、有意義な一日になりました。


 今日は、手抜きの日記ですが、時々読む守屋洋著「新釈 菜根譚」から、一説を紹介します。


「心の余裕を失うな」

 閑なときには、気持ちまでだらけてしまいやすい。だから、心の余裕を保ちながらも、意識だけはすっきりさせておかなければならない。
 忙しいときには、気持ちが浮ついてしまいやすい。だから、意識をすっきりさせながらも、心の余裕だけは失わないようにつとめたい。

(解説)
 人間はもともと長い緊張には耐えられないようにできている。無理をするとパンクしてしまう。そこで時おりはリラックスさせる必要があるのだが、いったん緩めると、こんどは気持ちまでたるんで、緊張感をとりもどすのに時間がかかる。
 リラックスさせるのは、次の仕事にとりかかる準備期間だと心得てかかりたい。

(感想)
 多忙の中に、暇を見つけなさいと、先人は語っていますが、これがなかなか気持ちにゆとりを得るには、なかなか難しいの実感です。「忙中に閑あり」の教示を、どう自分で苦するかが、進路を誤らない工夫ではないかと思います。

*参考資料:「新釈 菜根譚」~人生はくよくよしないほうがいい~
  洪自誠著/守屋洋訳
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2310909



  


Posted by ノグチ(noguchi) at 22:47Comments(0)

2008年02月23日

心の余裕を失うな

心の余裕を失うな

 閑なときには、気持ちまでだらけてしまいやすい。だから、心の余裕を保ちながらも、意識だけはすっきりさせておかなければならない。
 忙しいときには、気持ちが浮ついてしまいやすい。だから、意識をすっきりさせながらも、心の余裕だけは失わないようにつとめたい。

(解説)
 人間はもともと長い緊張には耐えられないようにできている。無理をするとパンクしてしまう。そこで時おりはリラックスさせる必要があるのだが、いったん緩めると、こんどは気持ちまでたるんで、緊張感をとりもどすのに時間がかかる。
 リラックスさせるのは、次の仕事にとりかかる準備期間だと心得てかかりたい。

(感想)
 多忙の中に、暇を見つけなさいと、先人は語っていますが、これがなかなか気持ちにゆとりを得るには、なかなか難しいの実感です。「忙中に閑あり」の教示を、どう自分で苦するかが、進路を誤らない工夫ではないかと思います。

*参考資料:守屋洋著「新釈 菜根譚」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 21:24Comments(0)

2008年02月23日

仕事を通して自分を練磨し、修養を積む

仕事を通して自分を練磨し、修養を積む
(王陽明語録より)

「人ハマサニ事上ニ在ッテ磨練(まれん)シ、巧夫(くふう)ヲ為スベシ。スナワチ益アリ。若シタダ清ヲ好マバ、事ニ遭ッテ便(すなわ)チ乱レ、終ニ長進ナク、那(か)ノ清時ノ巧夫モマタ差(たが)ワン。」

*事上:実生活(実学)、磨練:練磨に同じ

(意訳)
人間は仕事を通して自分を練磨し、修養を積まなければならない。そうあってこそはじめて修養の効果もあがるのである。ただ静かな環境だけでは修養を積んでも、何か事件にぶつかってときに、たちまち心が乱れてしまう。そうでは、はかばかしい進歩など期待できず、せっかくの修養も役に立たなくなる 。


 陽明学の実学と言われる「真髄」の言葉と思います。本を読むことは重要であることは間違いありませんが、日々の暮らしに実践してこそ、学問の意味がある思います。師匠から教授されることよりも、自己の境遇の中で自分を高め、事が起こったとき、予想外の事件が発生した時に、心が動揺しないように、日々の精進が大事と言う教えです。

 孔子の教えの重要なものに、「修己治人」と言う言葉あります。周りに人々のことを咎めるより、まずは自分の生き方を直視し、日々行う仕事の中で、己の修養を高めることが、周りの人々に影響を及ぼすと言う教えと思います。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 07:25Comments(0)

2008年02月22日

為政者(リーダー)の守るべき道に四つある

為政者(リーダー)の守るべき道に四つある


子、子産を謂う「君子の道四有り。其の己を行うや恭、其の上に事(つか)うろや敬、其の民えお養うや恵、其の民を使うや義。」

(解説)
 孔子が子産のことを評して言われた。
「為政者の守るべき道に四つある。第一は、自分身の振舞いをうやうやしくする。第二は、上に仕えては慎み敬うことである。第三は、民を養うには、慈しみ且つ恵深いことである。第四は、民を使うには、道義に叶って公式であることである。これを実践されたのが子産である」

(感想)
 自分を振り返り、四つの行いを常に検証しつつ、行動したいと思います。日々反省こそが、成長の糧になるように思います。

*為政者を、リーダー、社長、代表等に読み替えると身近に考える事ができると思います。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 08:04Comments(0)

2008年02月22日

心の主体性を確立する

心の主体性を確立する

 仕事に忙殺されていても、心に余裕を持ちたいと思うのなら、ふだんから暇なときに、しっかりと心の安定をはかっておかなければならない。
 まわりが騒然としていても、心に落ち着きを持ちたいと願うなら、ふだんから静かな所で、心の主体性を確立しておかなければならない。
 そうでなかったら、心まで環境と事態の変化に振りまわされてしまう。

(解説)
 「安居ナキニアラズ、我ニ安心ナキナリ」と語っているのは墨子であるが、心に安定があれば、周りの環境にふりまわされることもない。

(感想)
 忙中に閑あり。忙しい時こそ、静かに考える時間を少しでも持つことで、ミスを減らす事が出来るように思います。
 反省する時間を、少しでも持つゆとりこそが大事なのかもしれません。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 07:44Comments(2)

2008年02月20日

「次期知事に期待」リーダー、粉骨砕身のとき

「次期知事に期待」リーダー、粉骨砕身のとき

「今日の一言」

「鞠躬 (キクキュウ) 尽力、死して後已まん」

 昨日、熊本県の中央部地域の教育事務所と同地域のPTA連合会の意見交換会があった。久々に、教育者の熱き思いを聞く機会を得たと思える教育事務所長の講和だった。これに近い感銘を受けた話は、現熊本県教育長が次長時代に、県PTA研修会での講演を思い出す。

 所長は、自らの教育実践で経験して来た言葉は、人を惹きつけるものがありました。人を育てることは、一対一の真剣勝負であることを再認識させる事例ばかり出て来ました。
 二年前まで校長時代の話が中心でした。札付きの不登校の意識を変えるために、毎日努力を惜しまない、生徒が来なければ出向く、地域に頭を下げ協力要請し、校長自ら地域との連携を創り上げる努力は、私自身も見習うとろがたくさんあると感じました。

 教師がサラリーマン化したとマスコミは評していますが、まだまだ教育に情熱を注ぐ先生たちがいることを感じた良き意見交換でした。

 昨日の話と今朝の読書が重なり、下記の言葉を思い出した。三国志に出て来る諸葛孔明の言葉の一節。

「鞠躬 (キクキュウ) 尽力」

 劉備亡き後、二代目劉禅に奉った『後出師表(ノチノスイシノヒョウ)』の結びの言葉である。意味は、「身を粉にして働きます」という諸葛孔明の決意表明。
 事実、小国、蜀の全権を委任され、宰相としてきり盛りしながら国力を整え、宿敵の魏に立ち向かった。それはひとえに無き劉備の信頼にこたえんがためだった。孔明は、その精勤ぶりで国民や部下の厚い信頼を受けたばかりでなく、古今の名宰相として、広い支持を集めてきた。
 リーダーが先頭に立って働けば、部下もその気になって頑張らざるをえない。そういう意味で、率先垂範もまたリーダーの重要な条件のひとつである。(守屋洋著、三国志名言より)

 20世紀の名宰相、中国の周恩来氏の死去のとき中国の人々が送ったことばが、この「鞠躬尽力」だったそうだ。私欲を捨て、国家の隆盛を願い「身を粉にして働いた」姿勢は、いまだに世界から敬慕されています。

 現代の色々な分野のリーダー、この中国古典の言葉を実践して欲しいものです。私自身も「鞠躬尽力」を実践に努力して生きたいと思います。


今回の知事選で選出された、候補が知事を終えるときに、上記の言葉を県民から送られる様な実績を残してもらいたいと望みま
す。


  


Posted by ノグチ(noguchi) at 23:02Comments(0)

2008年02月19日

心のバランスをとる(緊張と弛緩)

心のバランスをとる(緊張と弛緩)

(本文)
 ぼんやりして考えがまとまらないときは、頭を冷やして集中心をとりもどさなければならない。緊張しすぎて気持ちの余裕を失ったときは、心を空っぽにして平常心をとりもどさなければならない。
 そうでなかったら、せっかくのぼんやり病は治っても、こんどは、あっちこっちうるろ、こっちにうろうろするのが落ちだ。


(解説)
 緊張と弛緩の問題である。緊張のしっぱなしではいずれ燃え尽きてしまうし、逆に緩みっぱなしでは物の用に立向かうべしとも思われない。
 バランスに留意することが望まれるのである。

*以上、守屋洋著「新釈 菜根譚」より


(感想)
 気配りは、八方に緊張を持って向かうことが大事と、何かの本で読んだのですが、一日中緊張しっぱななしでは、身体が持ちません。
 時々は、ゆったりと思考をめぐらし、挑むときは全神経を集中して望む心構えを持ちたいと思います。

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 22:41Comments(0)

2008年02月19日

暮夜知る無し「四知:天知る、神知る、我知る、子知る」

暮夜知る無し「四知:天知る、神知る、我知る、子知る」


 以前、私の日記に書いたことなのですが、安岡先生の「申吟語」の解説の冒頭は、「四知」の出来事を語ったものでした。

(本文より)
 関西(かんぜい)の孔子と言われた、後漢末の学者で政治家の楊震(ようしん)の故事。楊震が地方の長官にいた時の出来事です。

 管轄地域を巡察中、以前に目をかけていた王蜜というものが、夜分に密かに訪ねてきて金十斤を遣(おく)ろうとした。現代の賄賂。
 楊震はそれをみて、

「私は昔から君をよく知っておるつもりだが、君にはその私がどうしてわからないのか」

と言ってきっぱりとこれを拒否した。ところが王蜜というのはよほど勘の悪い男とみえて、

「いや、夜のことで誰もみておりませんからご心配いいりません」

という。そこで楊震はこう言って誡めた

「天知る、神知る、我知る、子知る何をか。知るものなしといわん」

と。これにはさすがの王蜜も愧(は)じて室を出て行ったという。(中略) 

 人間にとって最も大事なこのは敬恥の心でありまして、その敬恥の心が悪い方に働くと忌憚(きたん)の心になる。したがって忌憚の心を失ってしまったら、これはもう「此れ死生の関」でありまして、正に死の道である。まだ人に知られては困るという間は良心が死に切っておらぬからである。(中略)


 一人ひとりの「良心」を問う故事ですが、よの政治家の多くに読んで欲しい訓辞でもあります。
 「天知る、神知る、我知る、子知る」の精神を忘れず、人と接して生きたいものです。人は、弱いものですから、故事を日々読み返し、自分の行いを反省することが必要なのかもしれません。

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 06:49Comments(0)

2008年02月18日

愛敬の心を持つこと(その2)

愛敬の心を持つこと(その2)

 人には親しいもの、疎遠なものがあり、身分の高いもの身分の卑しいものがあり、また智者・愚者・賢者・不肖者とあって、いろいろと同じではないが、みないずれもわが同じ人間同志であり、みなわれて一体であるから、誰か尊敬しなくてもよいものがあろうか。誰か愛さなくてよいものがあろうか。みな一様に敬愛しなければならない。

 思うに、すべての人を敬愛することは、摂りも菜央座ズ、聖人聖者を敬愛することになる。万物に順って逆らうことなく、そしてすべての人の志を通じてやるのは、そのまま聖賢の志に通ずることになるのである。何故かといえば、聖人聖者の志というものは、もともと、この世、この民衆が、各自その適所適材を得ることを願うものであるからである。

 その故、わが身心が愛に合致し、敬に合致し、世間、まわりの人を安らかにすることは、とりもなおさず聖賢のためにこれを安ずることになるのである。まして古(いにしえ)の聖賢といわれる人は、衆人万物によって慈悲心を起こし、その慈悲心によって正しい悟りを成就したのである。このことを思えばなおさらである。

 四書の一つである「大学」の最初に「明徳を天下に明らかにす」と言っているが、これも天下、すなわち日常生活である世界を捨ててしまっては、聖人のみならず、だれ一人として徳を明らかにする場所がなくなってしまうではないか。


(解説)
 人間はそれぞれの置かれている立場や役割などで異なるし、また個々人それぞれの内なる資質も異なるが、みないずれも同じ人間であるから、互にその存在愛し、尊敬し、思いやりの心で接しあうことが大切である。

 また、このような分け隔てない、敬愛でもって心を養うことが、その及ぼす結果として善行となる。世間や、まわりの人たちを安らかにし、そのうえ世に知られず認められない善事を行う人たち自身も安らかにする。

 そして、このことは天の理に適っており、この世の自然の成り行きとして、このような心の養いがその人たちの開運に通じることになるのである。

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 21:58Comments(0)

2008年02月18日

愛敬の心を持つこと(その1)

「開運のすすめ」愛敬の心を持つこと(その1)

愛敬の心を持つは、どういうことをいうのであろうか。

 おれは、たとえば、君子と小人との表面的な形について観察して見ると、節義とか廉恥とか文章とか政治といったものは、君子もよくするし、小人でもできないことはないから、常にまじり合って区別がつき難い。

 ただ一つ、心がどのようであるかという点になると、善と悪が掛け離れてしまい、はっきりと見分けられるし、黒と白と相反するように別れてしまう。それ故に、孟子は、「君子が外の人と相違するわけは、君子は本心を存しているからである」と言っている。君子のしっかりと持っている本心とは、一つに仁、一つに礼である。その仁と礼とは一体いかなるものであろうか。

 仁者は人を愛するものであり、礼あるものは人を敬するものである。ゆえに、仁礼とは、常に人を愛し、人を尊敬する心を堅持していることをいうのである。


(解説)
 正しいと思われる物の理屈を百篇も説いてみせるよりも、どのような態度や行動を取るかといった一度の義理をつくす方がまさっている、ということわざで、「道理百篇、義理一篇」と言ったりする。

 また、あの人の言うことは正しい理に適しているが、どうも納得できないし支持できない。ということを多く体験する。どのような正しい理屈であろうとも、究極のところで納得や支持することは、頭にかかわることでなく、「心に存す」、すなわち心にかかわることであるからである。

 君子と言われるりっぱな人間も、そうでない小人も、表面的に見分けがつきにくいものである。この両者を区別し、人を愛し、尊敬する心を、如何なる場合でも難く持っているか否かで、君子と小人の差が出てくるからである。

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 02:19Comments(0)

2008年02月18日

日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり。

日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり。
~守屋洋著「修己治人の学『大学』を読む。」~

中国古典の『大学』の解説書、守屋洋著「『大学』を読む」を昨日から読んでいます。現代語訳だけですが、昨夜から読み始め、一気に読み上げました。
その一節に、殷の湯王の話がありました。

(本文)
湯王は、洗面の器に「まことに日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」と言う言葉を刻みつけ、毎朝読み、常に覚悟を新たにして政治に取り組んだとありました。

また、『書経』には「新しく変わろうとする人々には、手をさしのべて奮い起たせた」

また、『詩経』には「周は古い国であるが、文王のとき、徳をもって国を治めてので、新たに天命を受けて天下を治めることになった。」

それ故、君子みずからを新たにする上でも、人々を新たにする上でも、最善を尽くすのである。(中略)

毎日の仕事というのは、同じことの繰り返しが多い。うかうかしていると、すぐマンネリになり、惰性に流されてしまう。(中略)それがなぜ「民を新たにす」の例証として惹かれているのか」。それは他でもない、自らを新たにすることができ、初めて民(の気持ち)を新たにすることが出来るからである。(中略)


 日々の仕事は、マンネリ化し安いので、自らを奮い起こし挑戦する気持ちを持ちづつけることが大事と思います。偉人の名言と思いきます。

「日日に新たに、また日に新たなり」
 
の気持ちを大事にし。改善し続ける持続力も必要と思います。
今回の文が、何かのお役に経つことが出来ればと考えてます。

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 00:12Comments(0)

2008年02月15日

三島中州先哲の教え(二松学舎大学創始者)

三島中州先哲の教え(二松学舎大学創始者)
人材教育の基本精神は「誠(まこと)」にある
  ~二松学舎大学創始者の三島中州先哲の教え~

 二松学舎大(東京都)広報誌に、山田安之理事長と全日空(ANA)の大橋洋治社長との対談が掲載されました。山田理事長は、二松学舎大の創始者・三島中州氏の理念を語り、その話題から大橋社長は、三島氏の師匠である陽明学者・山田方谷先哲の教育理念について語られています。

 「人材育成には[心・胆・頭・技(しん・たん・とう・ぎ)]の考えを柱にしています。現代の教育は
 「頭」を鍛える思いが強いのですが、本当は
 ・一番目に「心」が温かで真っ直ぐでなくてはならない。
 ・二番目に「胆」とは、勇気や決断力。
 ・三番目が常に冷静な「頭」。
 ・最後の「技」とは、行動することと考えています。
 現代の教育は、教科書(マニュアル)通りの答えを覚えることが優先されがちですが、それよりも
 「親孝行」といった価値観の教育が大切です。親孝行の原点は「感謝」や「誠意」であり、山田方
 谷の理念と言えます。」

山田方谷先哲は、4歳から素読を始め、様々な学者・私塾で学び、人生50年の時代に33歳まで、学問を続け50歳を越えて備中松山藩の改革を指導し、明治になってから新政府の要請を断り、陽明学の中心であった閑谷学校の校長として全国から方谷を慕って集まった若い青年たちを亡くなる直前まで指導されました。
*備中松山藩:岡山県高梁市周辺、約5万石の藩  


Posted by ノグチ(noguchi) at 23:54Comments(0)

2008年02月15日

悲劇は失敗でも過誤でもない。人生は苦しみか?

悲劇は失敗でも過誤でもない。人生は苦しみか?

 色々な場面で思ってみないミスを起こし、上司に叱られ更に落ち込み、またミスをしてしまう。これは「悲劇でしょうか」と、疑いたくなります。

 そんな思いを救ってくれる言葉が、小林秀雄語録がありました。

「悲劇とは単なる失敗でもなければ、過誤でもないのだ。それは、人間の生きていく苦しみだ。悲劇は、私達があたかも進んで悲劇を欲するかの如く現れるかこそ悲劇なのである。」(「感想」19‐42)

「人間に何かが足りないから悲劇は起こるのではない。何かが在り過ぎるから悲劇が起こるのだ。否定や非難を好む者は悲劇人たり得ない。」何も彼も進んで引き受ける生活が悲劇的なのである」何も彼も進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。(「悲劇について」19‐51) 

 明治・大正・昭和と、民衆側に立ち奔走した政治家・故尾崎幸雄氏は、75歳のとき大病を患い、自分の人生を振り返り、人生のひらめきを得たそうです。その答えは、次の言葉に表わされています。

「人生の本舞台は将来にあり」

要は、それまでの人生で起こった様々な出来事は、現在の自分の作るために在った「経験」であり、今後の仕事の糧のためにある。だからこれから来る人生こそが本舞台であると語ったと言います。

悲劇を経験と思えるかは、本人の器の問題と思いますが、心の在り様でその場面(事件)も危機がチャンスになると思います。悲劇を次の変化(行動)の起点に変えれるような心構えと日常の研鑽に努めて生きたいと思います。

先人たちの言葉は、奥が深く、参考になる言葉が多いと感じるこのごろです。


*参考資料:小林秀雄語録「人生の鍛錬」

・十八史略の人物学 (呂新吾の言葉)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=28077357&comment_count=0&comm_id=3045354


oooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooo

*異業種交流会「春の会」
 日 時  2月29日19:00~
 場 所  熊本交通センターホテル6F
 講 師  栗谷利夫氏(㈱近代経営研究所 代表取締役)
 テーマ  改革は、「公設民営」から、「民設民営」へ
 参加費  5,000円
 事務局  宇土市網引町1374 野口修一

 *1部 前半は、栗谷氏講演が中心
     後半は、会場全員参加の討論会。
  2部 講師・参加が限りなく語り続ける懇親会

主 催 環境共生施設研究所・異業種交流会「四季の会」
申し込み先 事務局 (申し込みはメールで、2月24日まで)
申し込みEmail : aande@lime.ocn.ne.jp

異業種交流会「春の会」参加申し込み(2/24)*氏名・連絡先(メール・FAX・TEL)
・所属等と、セミナー・交流会の参加有無を記入し、申し込みください。
<申込み内容>
氏 名:
住所等:
連絡先:
食事の準備等がありますので右の参加内容を記入ください。
1. セミナーのみ 2.セミナー+交流会   


Posted by ノグチ(noguchi) at 22:41Comments(1)

2008年02月15日

「気配り」と「ご機嫌取り」は、意味が違う

「気配り」と「ご機嫌取り」は、意味が違う

 色々な処で移動の時期ですが、「出世」「左遷」、「現状維持」等々、人の受ける感想は色々有りますが、事例一つで海外へ行くことのあるサラリーマンも大変なかと思います。私は、自営業で移動はありませんが、日々事を続ける中にも「気配り」や「ご機嫌取り」の風景を見ることがあります。片方は感動を与え、片方は気分良いものではない印象を持ちます。

 さて、植田正也著「電通『鬼十則』」の中の一節に、「気配り」と「ご機嫌取り」についての解説がありました。

(本文より)
 気配りと言うと、ご機嫌取りやおべんちゃらと混同しがちであるが、この二つのことは全く逆の位置に存在する内容である。
 どう違うか。
 気配りは、相手の心情、状況への思いやりであり、そこにはこちらのエゴがない。
 ところが、ご機嫌取りやおべんちゃらは、その場限りの日和見で相手への真心はなく、エゴの裏返しでしかない。
 この二つは、一見、混同され易い。同じ気を遣うのだが、内容が「違うこと」に注意しなくてはならない。
 しかし、気配りとご機嫌取りの本質は、周囲にはっきり見えるということである。わからないと思うのはやっている本人だけで、本性がはっきりと外へ現れるということだ。(中略)
 
(本文より)
 気配りとゴマスリは、根本的に違う。
 気配りとゴマスリを混同している人は、案外に多いのだ。
 気配りには、尊敬の気持ちがある。
 ゴマスリには、卑しさの気持ちが出る。
 この二つは似て非なるものだ。


いやーっ、きびしい指摘ですね。でも、目上の方に語る風景を長らく見ていると、感覚的に「これ、ゴマスリ?」ではと、思う場面を多々みます。会社だけでなく、地域の様々な組織やグループでもあります。人の習性の怖さを感じるものと思います。
 植田氏は、真の気配りについての意味を、説明しています。

(本文より)
 気配りって結構、創造人間の領域の問題である、創造的な人間でないとできない精神のウォーミングアップ運動なのだ。(中略) 

 そもそもこの文章の本となった、項目では、八方への気配りに進めでしたが、項目の最後のまとめに次の一節がありました。電通4代目社長の吉田秀雄氏の訓示の言葉です。


(本文、吉田秀雄語録より)
 新しいビジネスに必要な三つの「S」。
・Strategy:戦略的発想と行動
・Speed :決断と創造のスピード(経営)
・Simple :単純化のよるコア・コンピタンス〔核心〕の発見
「頭は常に、「全廻転」八方に気を配って一分の隙間もあってはならぬ。」


 私心を捨て、相手のことを思っての気配りの進めと思います。この言葉は、今でも十分通用する人生の訓示と思います。
 互いを伸ばすような事業を協働で、作り出すような人間関係を作りたい思います。



 安岡正篤氏の著書「申吟語を読む」の中で、幕末の薩摩藩主の島津斉彬公が、部下の西郷隆盛のことを、

「この男は西郷隆盛というて、いわゆる知識だの才幹だのというものではなくて天性の大仁物です」

と、松平駿嶽に答えたそうです。これは、巡り巡って西郷の耳にいつか入ると思いますが、斉彬公の地位を考えると、素晴らしい見識と発言と思います。これこそが、気配りではないかと思います。その後の西郷の活躍は、歴史が証明しています。


*参考資料:植田正也著「電通『鬼十則』」(PHP文庫)
安岡正篤著「申吟語を読む」(致知出版)

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 00:37Comments(0)

2008年02月12日

人格に三種類あり、「上士、中士、下士」

人格に三種類あり、「上士、中士、下士」

 昨日から、中国・明代末の哲人「呂新吾」の著書『伸吟語』を解説した、安岡正篤著「伸吟語を読む」を読んでいます。

 これを読み進めるに、これを熊本の思想家が敬慕する「横井小楠」も読んだのではないかと思う文が、多々出て来ます。紙面の中にも、陽明学と分類した内容のことがありましたが、思想としては、その本人そのものですし、分類は後世の学者たちが喧々諤々と議論することなので、私の範疇で無いので意見は書かないことします。

 「伸吟語」の一節に、つぎの言葉がありました。



「上士、中士、下士」

(本文より)
 上士は道徳を重んじ、中士は功名を重んじ、下士は詞章を重んじ、斗肖(としょう)の人は富貴を重んずる。

(意味)
 上士:本当に出来た人は、道徳を重んずる
 中士:中等の人間は、功名を重んずる
下士:下等の人間は、文学とか詩歌、芸術をと言ったものを重んずる
 斗肖の人:一般人は、富貴を重んずる 

今の社会でも似たような風景がたくさんあります。自分を省みることの大切さを感じる訓示と思います。



(本文より)
 古今の士に率(おおむ)ね三品あり。上士は名を好まず。中士は名を好む。下士は名おも知らず。

(意味)
 下士は、名などどうでも良く、ただ金さえあればよいというわけです。しかし、少し飯が食えるようになると、名誉・名声が欲しくなる、名刺に肩書きを刷り込みたくなるのです。上士は、名誉・名声などばかばかしくなっている。



『伸吟語』は、リーダーの日常の行動理論を提唱している部分が多々あるのですが、参考になることが多いと思います。

横井小楠は、「大儀を四海に布かんのみ」と、世界規模の発想を提唱しながら、実はリーダーの行動理念も同時に説いています。

「心に逆らうことあるも、人を当てにすることなかれ、当てにすれば徳損ず。
 為さんと欲することあるも、心を当てにすることなかれ、当てにすれば事を破る。
 君子の道は実を修むるにあり」(横井小楠語録)

とあります。高い志を唱えるのは良いのですが、市民感情は、「実は、リーダーの日常行動」も含めて評価しているようです。これは、2500年前の孔子に時代からあるようで、「修己治人」考えを先人たちが幾度となく説いてきました。

 『伸吟語』にも、そのテーマで1稿がありました。リーダーの価値観は、2,500年前からそう変っていないのかもしれません。

「己を修めること」と「人を修めること」は、上記の小楠の言葉ではないですが、同時に行うことが重要と感じます。その点を王陽明は「知行合一」と教示し、実践したのだと思います。

 私も、「君子の道は実を修むるにあり」と言えるような生き方をしたいと思います。
伸吟語の解説書「伸吟語を読む」を、読みながら自分自身の生き方を確認する時間になっていると思います。

 時々、「伸吟語」について、色々感想も含め、日記に書いて行きたいと思います。ご意見等頂ければ幸いです。


・コミュ『呻吟語』(呂新吾著)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3045354(申吟語を読む:安岡正篤著)

 儒学は「修己治人」の学だと言われる。「己を修め人を治む」である。つまり、人を治める立場の者はなによりもまずそういう立場にふさわしいように己を修め、自分を磨く必要があるのだ。

*『呻吟語』の著者呂新吾は、今から四百年ほどまえ、明代の万歴年間に活躍した高級官僚であり、政治家であった。


oooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooo

<以前の日記>
・開運のすすめ」人と共に善をおこなう(その2)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=711410404&owner_id=2182841

<関連サイト>
・開運のすすめ「陰隲録」に学ぶ
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=3058451
*筑紫女学院大学の永渕教授が書かれた「開運の進め~『陰隲録』に学ぶ~」は、毎週月曜日にご紹介したいと思います。



oooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooo

*異業種交流会「春の会」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=708851437&owner_id=2182841
 日 時  2月29日19:00~
 場 所  熊本交通センターホテル6F
 講 師  栗谷利夫氏(㈱近代経営研究所 代表取締役)
 テーマ 「公設民営」から、時代は「民設民営化」
 参加費  5,000円
 事務局  宇土市網引町1374 野口修一

 *1部 前半は、栗谷氏講演が中心
     後半は、会場全員参加の討論会。
  2部 講師・参加が限りなく語り続ける懇親会

主 催 環境共生施設研究所・異業種交流会「四季の会」
申し込み先 事務局 (申し込みはメールで、2月24日まで)
申し込みEmail : aande@lime.ocn.ne.jp

異業種交流会「春の会」参加申し込み(2/24)*氏名・連絡先(メール・FAX・TEL)
・所属等と、セミナー・交流会の参加有無を記入し、申し込みください。
<申込み内容>
氏 名:
住所等:
連絡先:
食事の準備等がありますので右の参加内容を記入ください。
1. セミナーのみ 2.セミナー+交流会



  


Posted by ノグチ(noguchi) at 23:06Comments(0)

2008年02月12日

人品について(『呻吟語』呂新吾著、守屋洋 編・訳)

人品について(『呻吟語』呂新吾著、守屋洋 編・訳)


人品について

必要なのは実践体験

 実際に問題にぶつかってみないと、自分の能力など高が知れていることに気づかない。問題にぶつかるたびに、知識がふえ能力が磨かれていくのである。実践体験に欠ける人物は、ただ理屈を説いているにすぎないのだ。

 ■もちろん本を読んで他人の経験に学ぶことも必要である。だが、いくら本を読んでも、本から得られるのはたんなる知識であって、生きた智恵としてはたらいてこない。生きた智恵を身につけるためには、実践体験を積まなければならない。たとえば経営の勘とか機微などというのは、そういったものであろう。理屈は評論家なるものにまかせておけばよいのである。


どちらの道を選ぶのか

 「われわれがあくせくと走りまわわっているのは、天下国家のために、人民の生活を安定させようとしてのことであるか。それともわが身や妻子のために、少しでも高い地位について収入をふやそうとしてのことであるか」
 天下が治まるかどうか、人民が生きていけるかどうか、国家が安泰であるかどうかは、われわれ指導者がどちらの道を選ぶかにかかっている。
 ああ、われわれの数がふえるにつれて、世の中の苦しみはいよいよつのり、われわれが高い地位につくにつれて、人民の生活はいよいよ困窮していく。これでは、われわれの存在など歓迎されるわけがないではないか。

 ■「人のため」と「自分のため」を、うまく両立させることができれば、それがいちばん望ましい。なかでも責任のある立場、とくに公職にある者の場合は、「人のために」のほうに比重をかけるぐらいで、ちょうどバランスがとれているのかもしれない。


「大体を知る」

 人材登用の権限を握っている者は、大局的な判断力を身につけていなければならない。こざかしい知識で人間を評価すれば、すばらしい能力をもった人物をすべて見落としてしまう恐れがある。

 なぜか。大きな問題を処理できる者は小さな問題の処理を苦手にしているし、長期的な計画を得意にしている者は小さな才能には欠けている。また、重大な任務を遂行できる者は目先の対応を苦手にしているからだ。さらに、頭が切れて柔軟かつ機敏な対応を得意としている人物、礼儀正しく見聞の広い人物などは、重大な危機に立たされたときにはあまり役には立たないであろう。
 ああ、言いにくいことだが、士が登用のチャンスをつかめるかどうかは、上司の愛憎いかんにかかっているのだ。

 ■「大体を知る」とは、リーダーに対する誉めことばの一つであるが、これには、つぎのようなことが含まれている。
    一、細部にとらわれない大局的な判断。
    一、一方にとらわれないバランス感覚。
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 08:03Comments(0)