2021年08月24日

<自らの意志と必然性、コヘレトの16の行為>出来事には、すべて定められた時がある。〜旧約聖書「コヘレトの言葉」〜

<自らの意志と必然性、コヘレトの16の行為>出来事には、すべて定められた時がある。〜旧約聖書「コヘレトの言葉」〜

「人生を振り返り、その時(タイミング)はどうだったか、どうなったか、を考える」

どうしてここで、この人に出会うのか?

どうして、事業が上手くいかなくなるのか?

どうして、このタイミングで?

人生には、何かタイミング(その時)があるように思います。

冒頭の言葉は、曽野綾子著『中年以後』にある一節です。

その旧約聖書「コヘレトの言葉」の別の言葉が紹介されています。

「抱擁の時、抱擁を遠ざける時、
 求める時、失う時、
 保つ時、放つ時、
 裂く時、縫う時、
 黙する時、語る時、
 愛する時、憎む時、
 戦いの時、平和の時。」
(以上、「コヘレトの言葉」3・5〜8)

人は、出会うべくして出会う。必然的に出会う、と地域のまちおこし団体の代表に、何度も聞いた。

出会いは、行動する先にあるのでないのか?

進学、

就職、

スポーツ、

旅行、

は、自らの決断と行動から始まる。

偶然の出会いも、自ら始めているので、必然的に起こるとも言えます。

朝から、何を言っているのか?

コヘレトの言葉にある、人間が自ら起こす"16の行為"は、何かの出来事に影響され行動につながる。

冒頭の言葉の全文は、

「天下の出来事にはすべて定められた時がある」(3・1)

定められた時があるのに、個人には意志があり、毎日考えて動いているのに、必然性があるのか?

最近、コロナ禍で、1人の時が増えているように思います。巣篭もりは、人の行動を制限しています。能動的な人は、オンラインとか、SNSで動かぬことを逆手に取って活動しています。

コロナ禍によって、「コヘレトの言葉」の"16の行為"について、人生を振り返り、その時(タイミング)はどうだったか、どうなったか、を考えるもの良いかもしれません。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 06:47Comments(0)故事、名言、スピーチ、等

2021年08月17日

<自らを助ける>作家の田辺聖子さんの人間分析の記述がとても好きなのですが、

<自らを助ける>作家の田辺聖子さんの人間分析の記述がとても好きなのですが、

田辺聖子さんの文を集めた本『渋み(ビター)少々』にある一節に、

???

とおもった。女性ってそうなの?

(以下、転載)

 女というものは、自分で思っていて他人から指摘されないと、自分の意見にならない所がある。その代り、他人にたしなめられると、それはいっそう揺るぎない信念になり、自分一人の考えよりも先鋭化し、増幅されてゆく。
(以上、田辺聖子著『夕ごはん食べた?』より)

田辺聖子さんのご指摘の体験を以前にもしたことがある。

会場で、手を挙げた女性の意見に、みんなが賛同した。ところが、その議論の上をいく話になった。その意見を語ったのは、賛同された女性リーダーだったが、その提案には賛成者は少なかった。

何故か?

>自分一人の考えよりも先鋭化し、増幅されてゆく

賛同されると、さらなる上を目指して、大きな話が出てくる。その時の反応がとてもだいじなのです。

これは、男女関係なく、人間に試される時、一種の成果(注目)より、地道な活動こそが、自らを助けるのだと思います。  


2021年08月01日

<社会というより世間>身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の初めなり。〜孝経〜

<社会というより世間>身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の初めなり。〜孝経〜

外は雨が降り続きそうなので、あきらめて朝読書にしました。

先日読み上げた、司馬遼太郎氏とドナルド・キーン氏との対談集『日本人と日本文化』で、日本人のモラルについての部分から、

(以下、本より)

「恥」ということ

 司馬 そのくせ、秩序がうまくいっているのはなぜかというと、「恥ずかしいことをするな」ということである。「そんなことを言っては笑われる」とか、「そんなことを言うと恥をかく」とか、いまの子が言う「カッコいい、カッコ悪い」とか。カッコいいということは鎌倉の武士からすでにあった。戦場に出て敵にうしろを見れたらカッコが悪い、だから逃げるなとか、それは要するにモラルではなくて、美意識でしょう。
(以上、『日本人と日本文化』より)

この文の最後の方で、日本の犯罪率の低さを語っています。

犯罪はカッコ悪いから。

海外の犯罪者は、決して自白しない。

日本の刑事ドラマでは、必ず自白するシーンが出てくる。

この意味をキーン氏は、日本の「恥の文化」について言及し、この元となっているのは、儒教の浸透だろう、と指摘しています。

40代から通う、中国古典輪読会が宇土にあります。そこから広がった親子で学ぶ『宇土親子論語教室』の手作りの教本に以下の文があります。

(以下、教本より)

『孝経』

身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の初めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終わりなり。
(以上、『宇土親子論語教室』より)

父母に受けた身体を傷つけない。

立身出世、名声を上げて、父母に報告する。

ここに、「恥の文化」の元があるように思います。

『論語』が世には広く知られていますが、短い『孝経』の文は、生活の中に根付いているな、と司馬氏やキーン氏の言葉を読み、宇土親子論語教室で勉強の一番最初に、みんなで音読する言葉を思い出し、書きました。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 05:27Comments(0)孔子の教え故事、名言、訓示、スピーチ