2009年05月31日

本物は感化する ~言志四録~

本物は感化する ~言志四録~

(現代語訳)
 枝葉末節のものほど、非常に移り変わりが激しいから影響力が大きくみえるが、それはまことに影であり響であって空しいものだ。直ぐ消えてしまう。
 本質的なるものの影響は影響ではなく、それはもう骨髄に入る。ものになる。身になる。身に附く。これは影響ではなくって感化と言う。(中略)
(以上、「「佐藤一斎 一日一言」」)

 感化:人物が偉大であればあるほど、立派な環境を作る。人間ができないと環境に支配される。

 目先に流行でなく、人の心を凝視して、移り変わりに動かされない人の思い(意志)の本質を見きわめ、相手の身心を揺さぶるような言動を、いかにして身に付けるか、いつも悩むところですが、偉人たちの行動を検証すると、随所にその感化力(影響力)を使って、事を成し遂げた事例がたくさん出てきます。

 感化力とは、崇高な志と、それをし遂げようとする猛烈な意欲にあるように思います。そして「志」は、周りよりちょっと高い位置にあり、高貴な香りをかもしていると言います。人を惹きつける魅力(磁力)をどうやって見につけるか、リーダー足るものの不断の努力と、人との交流にあるように思います。

*参考資料:「佐藤一斎 一日一言」言志四録を読む  


Posted by ノグチ(noguchi) at 06:48Comments(1)斉藤一斎「言志四録」

2009年05月29日

いい加減、良い加減、の違い ~日本語の感性~ 

いい加減、良い加減、の違い ~日本語の感性~ 

 たまには、言葉あそびも良いかと思い、こんなことを書きました。

(本文より)
 真面目なほど多重債務者になる? 
 これって変な教示ですが、取立て屋は真面目人間ほど、きつく取り立てて追いつめる。 
 いい加減な人間には手綱を緩めるらしい。 

(解説)
 いい加減は、普通は良い意味に使われない。
 お風呂の湯加減で使う「いい(良い)加減」は、程好いと言う意味。 

(感想)
 一分のスキも無い人は、近寄り難い空気を感じます。少し「いい加減」な人は、気楽な親近感を持つのは私だけでしょうか。
 人間の付き合いは、微妙な感覚が大事なのかもしれません。 

*出典:川北義則著「いまはダメでも、きっとうまくゆく」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 08:01Comments(0)私の意見

2009年05月28日

可愛い子には旅をさせよ(言志四録)

可愛い子には旅をさせよ(言志四録)

 ライオンは、わが子を谷底へ突き落とし、はい上がって来た子を育てるとありますが、人間はそこまでのことはしませんが、庇護の下での教育の難しさを先人たちも悩んだようです。江戸期に教育者、佐藤一斎の教示を集めた「言志四録」に次の言葉がありました。

(現代語訳)
 草木が芽生えたら必ず移し植えて育てるようにすると、よく伸び茂って枝葉が広がっていく。
 子弟の学業においてもこれは当てはまる。必ず子弟を他国へ出して師について学ばせ、よく鍛錬して初めて学業が成るのである。
 いつまでも父母のもとでごろごろしていたり、郷里でこせこせしていて、どうして草木がよく生長するように学業が成就するみこみがあるだろうか。とてもではないが、その望みはない。(言志後録、146)
 
 また、佐藤一斎が、子育ての心構えを説いています。

(現代語訳)
 子どもを教育するには、溺愛してわがままにさせてはいけない。善行を強いて親子の愛情を損なってはならない。(言志後録、159)

 何時の世も子育ての悩みは尽きません。まず親自身が、一度切りしかない初めて子育てです。それと、子どもはそれぞれ個性が有り、同じ子育てが通用しない。これまも悩みの種です。

 しかし、日々の暮らしをしていて、親子の関係も「人間対応」ですから、試行錯誤の工夫しかないのが現実です。当たって砕けろではないですが、出たとこ勝負と思う人もいます。わが子は、「変り者」と思い悩むこともあると思いますが、以外に歴史上には似たような性格をした人物がいたりするものです。

 幕末・明治維新時に活躍した陽明学者の山田方谷が、弟子の河井継之助に最後の教示したことは、「地域に学ぶ人が居なくなったら、全国の人から学べ、それでも居なくなったら歴史に学べ」でした。歴史、古典を学ぶのは、歴史的な事件を学ぶのでなく、人の生き方を学ぶことが大事と、先人たちも悟っていたようです。

 現代の教育は、暗記記憶の教育で、歴史上の人の生き様を学ぶゆとりがありません。人の生き様を学ぶことこそ、本当学問のように最近思っています。

*参考資料:渡邊五郎三郎訳著「佐藤一斎 一日一言」(言志四録を読む)



*** 熊本日日新聞をお読みの方へ ***
 今日(5月28日)の朝刊の「読者の広場」に、私の投稿した、持続可能な社会が目指すがたの提案「鮮明な目標で 社会持続可能」、が掲載されました。ご笑覧して頂き、ご意見を頂けるとありがたいです。よろしくお願します。
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 09:19Comments(1)斉藤一斎「言志四録」

2009年05月27日

「この時代に生きた証しを残したい」(高橋尚子)

「この時代に生きた証しを残したい」(高橋尚子)

 オリンピックのマラソンを制した、高橋選手の意志を表す言葉と思います。
この言葉を聞いて、こちらが心を躍らせるような気持ちになります。

 石原慎太郎氏のエッセイ集から、この言葉を知りました。また、高橋-小出の師弟コンビは、テレビで知っていましたが、その理念や新しい練習への挑戦とは、あまり知りませんでした。

(本文)
 ・・・、高橋選手は自らの力を信じ、小出監督はそれを見出して認め育てて磨き上げ、そのために強いられた過酷な練習に彼女はよくも耐えつづけた。そして何よりも小出監督の言葉「二人はカケッコが好きだ」、という通り二人は自らが選んだ走るという方法を自らの人生を証すためにも愛し続けた。(中略)

 上記の言葉が示すように、新しい練習と緻密な計画を組んだ。富士山より高い所での高地トレーニング、本番のコースで「引き離しを予定している場所」の近くに宿舎を構え、何度も何度も、本番の状況を想定して、引き離しの練習を重ねたとありました。

・それぞれが、自分を証しを残すには
 高橋選手のような天性の運動能力は、我々は持ち合わせませんが、それぞれの特性を活かして、自分が生きた時代に何か「証し」を残すことは、とても重要が考え方だと思います。 

 私自身、日々書き込む日記(ブログ)は、2002年6月から始めた「(旧)日曜メール」から書き溜めたものを、整理しようと今年になり、暇を見つけて少しづつやっています。よくもまー、書き続けたものとふり返ります。

 「整理をしておいたが良い」と助言をしてくださったのは、私に新エネルギー政策の指導をしてもらっている博士です。「整理しておくと、後で何でも使えるから、忙しいけどしておいた方が良いから」、と。

 この文章が、ひょっとすると子どもたちへのメッセージ「証し」になるかもしれないと、こつこつやっています。

 ふと、今読んでいる石原慎太郎氏のコラムに、高橋選手のことあったので紹介しました。参考になれば幸いです。

*参考資料:石原慎太郎著「日本よ」   


Posted by ノグチ(noguchi) at 12:06Comments(1)故事、名言、スピーチ、等

2009年05月25日

早く学んだ事は、早く忘れる ~マイペースが大事~

早く学んだ事は、早く忘れる ~マイペースが大事~

 教育の問題は、何時の世も起こる問題ですが、特に現代は、「急げ、早く」の教育理論が、主流のようです。
 道元の教示を解説した本に、次の一節がありました。

(本文)
 人間の教育というものも、目的ばかりを高くかかげ、できるだけ能率的に早く目的を達成するやり方が、本当にいいのであろうか。まったくのところ、どこへ行っても「早く、早く」ばかりで、たまには「のんびり落ちついて」という言葉があってもよさそうだろう。「知らず知らず、いつの間にか身についていた」、これが、本物の教育だ。「早く」学んだことは「早く」忘れる。ゆっくり、しかも、長い間、道友や正師と交際すべきなのだ。頭につけるのではない。しっかりと「身につける」のである。
 禅語に「以心伝心」がある。何の言葉がなくても、悟った師の心は、親しく顔を合わせるだけで、伝わっていくということだ。(中略)
  (以上、「道元『禅』の言葉」)

 教育は、しっかりと「身につける」のである。

 大事な理念と思います。私も、ついつい、早く、早くを口にしてしまいます。
 長い目で、教育を考えるゆとりを持ちたいと思います。

*参考資料:「道元『禅』の言葉」
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 19:57Comments(1)道元「禅」の言葉

2009年05月25日

たとえ口は重くても、行はきびきびしよう

たとえ口は重くても、行はきびきびしよう

(本文)
子曰わく「約を以って之を失う者は鮮(すくな)なし」
子曰わく「君子は言(ことば)に訥(とつ)にして、行い敏ならんと欲す」

(現代語訳)
孔子が言われた、「つつましくして、行き過ぎないように心がけて、失敗するもは少ない」孔子が言われた、「君子は、たとえ口は重くても、行はきびきびしようと思うものだよ」

(感想)
 行け行けドンドンと、成果を急ぎ、強引に引っ張る人が多いが、とどの詰りは失敗することも多い。孔子の教示は、事は慎重に進めなさいというものと思います。日々の事を振り返ると、急ぎすぎるきらいがあるので注意したいと思います。

 リーダたるものは、しゃべりすぎに注意という教えと思います。しかし、事が始まれば、まず行動を起こすことが先、長い説明は後、率先垂範の行動が大事と説いています。

 何時の時代も、指導者のあり方は変らないようです。

*参考資料:伊輿田覺訳編「仮名論語」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 10:03Comments(1)孔子の教え

2009年05月24日

今この瞬間に集中する ~言志四録~

今この瞬間に集中する ~言志四録~

(現代語訳)
 われわれの心は今のこの瞬間にすべて傾けなくてはならない。事柄がまだやって来てないのに、これを待ち受けることはできないし、すでに過ぎさってしまったことを追いかけることもできない。ほんのわずかでも過去を追ったり、未来を迎えたりするのは、本心を失っているということである。

(解説)
 荘子は「至人の心を用うるや鏡の如し。将(おく)らず逆(むか)えず応じて而(しこう)して蔵(おさ)めず」と言っている。済んだことにいつまでも捉われず、先のことを取り越し苦労せず、人の影を残さない鏡のようにあれということである。

(感想)
 陽明学の教示に、「事上磨練」と言うものがあります。日々の仕事の中に学問を磨く機会があり、志しさえあれば、自分を高めることができる。
 小林秀雄氏の語録にも、「物の動きに順じて自己を日に新たにする」とあります。今のこの瞬間に出来る最大最高のものを追い続ける事の積み重ねしか、成長の道はないと思います。早道、近い道、言葉はありますが、こつこつ地道に生きて行くほうが、早道なのかもしれません。

*参考資料:斉藤一斎語録「言志四録」(渡邊五郎三郎訳)  


Posted by ノグチ(noguchi) at 08:20Comments(1)斉藤一斎「言志四録」

2009年05月23日

「努力すれば報われる」わけではない

「努力すれば報われる」わけではない

 青年には志を持てと教示する教師たちの日々の仕事を検証する人たちは、あまり居ないと思う。それは、どんなに賢明に教えても、十人十色の子どもたち、自分の理解を超えた行動、思ってもみない期待はずれ、日々起こると思います。
 若いころは、なかなかそれが分からない、今の時代、早く成果を求めすぎるきらいがある。

 「道元『禅』の言葉」に、努力と結果を第三者の視点で書いている部分があります。

(本文転載)
「どうして、こんな結果を出したんだ!」
「ハイ、すみません。みんなで一生懸命努力したんですけど・・・」
「何!? これでも一生懸命努力やったというのか。全ては、結果しだい。努力が足りない。そんなことが分からんのか!」
 努力をすれば、いい結果が出る。いい結果が出ないのは、努力が足りないから・・・。そうではないのだ。世の中というものは、努力をしても、いい結果が出ないときもあるし、大して努力をしなくても、いい結果が出るときもある。
 「結果自然成」
道元の「空華」の言葉、すべての結果というものは、自然に出てくるものであって、人間の作為とか努力とかに関係しない、と説く。(中略)
  (以上、「道元『禅』の言葉」)

 すべて自然の仕業と楽観すると人間、努力を忘れます。道元の説く、自然とは自分のできることを全て尽くし、出た結果は「仕方が無い」という意識と思います。
 以前にも書いた、五木寛之氏の<他力>の考えに近いものがあると思います。

「人事を尽くすは天命なり」

と、だから結果は問わない。熊本弁の言葉ですが「できたしこ(できたぶんだけ)」で良いのではと思います。
 来たした結果を振り返るより、そこへ至る努力の積み重ねに意味があると思います。

要は、結果に「こだわらない」のが大切と思います。

*参考資料:境野勝悟訳編「道元『禅』の言葉」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 10:55Comments(1)道元「禅」の言葉

2009年05月22日

(生命とは)宇宙の中で、自分は一人のみ

(生命とは)宇宙の中で、自分は一人のみ

 今、地球の大気圏の外周を、日本人宇宙飛行士の若田氏が、国際宇宙ステーションに滞在し、色々な研究調査が進められています。私の子ども頃からすると、夢の世界ですが、現実の宇宙空間が身近に感じれる時代にいる子供たちの未来はどんなものを想像しているでしょうか。

 かつて、私も小中学生の頃、宇宙とは、地球とは、自分の存在は?・・・、色々、少ない知識と情報を駆使して、考えたものです。人間、一度はそんな思いを抱き、過ごす時期(成長期)があると思います。

 現代、老練政治家の一人と評される、石原慎太郎東京都知事は、作家でもあるのですが、1997年に月刊誌「プレジデント」書かれた連載をまとめた「法華経に生きる」の一節のある文章が、とてもうまく表現されているので、ご紹介します。


(本文抜粋)

 ・・・、誰しも子どもの頃、特に自我が形成されていく思春期には、夜空を仰いで遠い星や星雲を眺めながらこの宇宙の中に今こうして生を得ている自分とは、自分の存在とはいったい何なんだろうとふと考えるものです。宇宙という膨大な空間の中に、あそこからこの地球まであの星雲の光が実は何万、いや何億光年もかかってやって届くという隔たりの彼方にある事物を、この今という瞬間に仰いで眺めている自分という存在のはかなさ、不思議さに打たれたことのなかったような人はいないと思う。

 確か、誰かにあの星とこの地球との間の距離は何万光年だと教えられてその星を仰いでみても、何万光年という隔たりの実感など人間にとってあり得ないし、そう知って眺めればま眺めるほどむしろ、不思議さを越して何か神秘なものを感じてしまいます。自分の理性の幅にはるかに余る巨大な空間なり時間を意識しなおして考えてみれば、思考が及ばぬままに人間は神秘なものを感じ、感動するというよりも、むしろある戦慄さえ感じてしまう。(中略)
  (以上、「法華経を生きる」)

 「自分の存在とは何ぞや?」

 一生つきまとう課題ですが、50歳になり、後が少なくなった年に成ってくると、これからの役割を思いつつ、若いころ悩んだことも思い出し年代と思います。

 その生きている実感で、今居る場所の日本、そして地球、太陽系、宇宙を空間の認識は理論的(知識)には理解できますが、やはり無限の世界だと思います。
 宇宙の中に、自分は独りしかしませんし、前にも後にも存在しません。今、生きている自分が唯一の自分です。

 何を言っているのかと、嘲笑されると思いますが、この認識こそとても大事と思います。またそこを認識しながら、日々周囲の人たちと接することで、自分の立ち位置を確認しているように思います。
 
 今、生きていられる保証が、「生命」と思います。
 一日、一日を大事に生きなければ思います。

*参考資料:石原慎太郎著 「法華経に生きる」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 09:02Comments(1)私の意見

2009年05月21日

人情紙風船(密に集まる族たち)

人情紙風船(密に集まる族たち)

 何時の世も、権力や富貴にあやかろう(たかろう)とする人たち(族・賊)が、居るものですが、これは2000年前も同じで、漢代の官僚の愚痴が伝えられています。

 中国漢代、ある官僚が政府の要職に就いたとき、ご機嫌伺いにやってくる客が引きもきらなかった。しかし官を辞めたとたん、ぱったりと客足が途絶えてしまった。その変化に対して、家の門につぎのような言葉を大書して、人情の薄さを皮肉った。

「一死一生スナワチ交情ヲ知リ、一貧一富スナワチ交態ヲ知リ、一貴一賤交情スナワチ見(アラ)ワル」

これは、生死、貧富、貴賎によって人々の態度ががらりと変わってしまうという意味。在官時と一般人になった後の差を、嘆いた言葉をして語り継がれています。

 よく引用する中国古典の「菜根譚」に、うまく人の行動を批評した教示あります。

・人情紙風船

 空腹のときはまとわりつくが、満腹すれば見向きもしない。裕福なときはせっせとやってくるが、落ち目になると寄り付かない。
 これは人情の通弊である。
(以上、守屋洋訳著「新釈 菜根譚」より)

 人をどう見るか(評価)するかは、長い時間をかけて交友を重ねないと、本質(心)はつかめないと、偉人たちも苦労した話がたくさん残っています。
 もう一つ、『荘子』に君子の交わりについての教示がありました。

「君子の交わりは淡きこと水の若(ごと)し」(「荘子」)

 べたべたしたつき合いがなぜまずいのか、すぐあきがきて長続きしない。くっつくのも早いが、別れるのも早い。
 水のように淡々とした交わりは、いつまでもあきがこないので、長続きするというわけです。 

 みなさんの周りには、どんな交流が見えますか、ちょっと距離をおいて考えることも、良き友を見つける工夫かもしれません。

*参考資料:守屋洋訳著「新釈 菜根譚」


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Posted by ノグチ(noguchi) at 09:56Comments(2)菜根譚

2009年05月20日

部下に対する心得(菜根譚)

部下に対する心得(菜根譚)

 今日、漢字検定の本山の役員が逮捕された。日本の漢字力の評価を傘に、私腹を肥やした財団として、後世まで汚名を残す結果となった。そもそも財団法人とは、社会奉仕の目的とする団体として国民は認識していると思います。

 もし、莫大な利益があれれば、それは国民に還元すべきと思います。国語こそ、日本の知識集積の根幹と思います。今後は、良識ある人物たちが、漢字検定の任に当たって欲しいと願います。

 さて、トップのあり方と、中堅の存在、そして部下たちの認識は、何時の世も気なるものですが、人生の指南の書「菜根譚」に、上司の心構えのことが書かれていた。守屋洋訳著「新釈 菜根譚」から、

(現代語訳)
 功績と過失の評価をあいまいにしてはならない。そんなことをすれば、部下はやる気を失ってしまう。
 好悪の感情をあからさまにしてはならない。そんなことをすれば、部下の心をとらえることができない。

(解説)
 信賞必罰をもって臨み、えこひいきしない、ということであろう。この二か条は人使いの基本といってよい。三国志の諸葛孔明も、この二か条を忠実に守って部下に対し、その結果、「民ニ怨声(エンセイ)ナシ」(「三国志」)と、名称ぶりをうたわれた。
(以上、守屋洋訳著「新釈 菜根譚」より)

 組織にとって、最大に問題は、上司に曖昧さ、優柔不断、評価のブレ(揺れ)と思います。要は、中途半端が一番いけないと先人たちが、くどく説いています。
 時々リーダーの心得とは何か反省し、さらに厳しく評価する外部の友人を持つことも必要と思います。

*参考資料:守屋洋訳著「新釈 菜根譚」


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Posted by ノグチ(noguchi) at 22:08Comments(2)菜根譚

2009年05月20日

家庭の危機管理(対策)

家庭の危機管理(対策)

 国の政策の話は、個人の生活との関わりが薄いのですが、家庭内でも非常時は良く来ます。

 大げさな危機ではないですが、「子どもが傘を持って行ってない、親は仕事でいけない、さてどうする・・・」とか、しょっちゅうあると思います。でも、これって当事者としては、けっこうパニックになります。(経験者)

 同じように、昭和の大批評家の小林秀雄氏も生活者して経験から、状況を説明しています。

(本文)
 事実は小説より奇だ、これは実に本当のことである。言語に絶する光景という様なものは、なかなか日常見られるものではないと僕等は思い込んでいる。ただそう思い込んでいるだけだ。若(も)し心を空しくして実生活を眺めたら、日常生活も驚くべき危機に満ちている。(「山本有三の『真実一路』を廻って」10-222、1938年)

 日常の危機(傘がない)等は、その状況が解決すれば直ぐに忘れてしまい、危機はなかったように思う。
 しかし、走る凶器といわれる車に関しては、命を落とすことにつながる危機が日々起こっていることを、ふとした時に思い出す。

 この時、子どもが走り出たら、
 この時交差点で直進車が来たら、
 事故、・・・、

心臓がギューッと、締め付けられるようなことを思い出します。それは、やはり危機の経験者と思います。そう考えると、日々、危機と向きあいながら生きていると知らされます。

 数年前のNHKの朝ドラで、「生ちょるだけで丸もうけ」とよく使われていたのを思い出しました。今日も無事に生きて過ごせることを願い、危険を予想しつつ、生活をしないといけないと思います。

*参考資料:小林秀雄語録「人生の鍛錬」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 18:15Comments(0)私の意見

2009年05月20日

人の考えなんて知れたもの

人の考えなんて知れたもの

 ニュースを見ると社会には、色々な事が起こっている。新型インフルエンザ、事件、事故、不祥事、汚職・賄賂、自然災害、等々、日々世界の各地だけでなく、日本国内でも頻繁に起こっています。

 この出来事の根元に、欲望を中心とする自己判断から、二者択一が常に存在します。
「良いか悪いか、損か得か、・・・」
欲望と二者択一の悩みは、古の時代からあり、古代も中世もやはり、人は考え続けたとおもいます。

 曹洞宗の創始者、道元もまた悩んだ、中国まで出かけその答えを見つけるために努力した。道元の教示を解説した本に次に言葉があった。

「自己をならふといふは自己をわするるなり」<現成公案>

(本文、解説抜粋)
人間は、朝から晩まで、良いか悪いか、プラスかマイナスか、好きか嫌いか、損か得か、気に入るか気に入らないか、親と子、男と女というように、物事を二つに分けて、頭の中でグルグル考え続けて生きている。
 これは、人間の特徴(特権)らしいが、中には考えすぎて病気なってしまう人もいる。

 そこで、道元は、「自己を忘れなさい(時には考えるのをやめなさい)」と喝破する。

 つまり、「グチュグチュ、グチュグチュの頭の中だけでものを考えて、その深みに入って悩み苦しんでいる自分を、たまには、すっぽりと忘れてみたらどうか」・・・・・と。

 世の中のあれこれうるさい考えを、ぽいと飛び越える。自分の我意識を忘れると、自分の中に生きている宇宙の生命が発見できる。人の考えなんて知れたもの。
(以上、「道元『禅』の言葉」)

 欲という色メガネを外し、まっさらの心(素心)の帰り、世を眺めてみると、自分は様々な人々に支えられて生きていると、感じる瞬間があります。ただ、また色メガネを直ぐかけて人や物事評価(二者択一、賛否)してしいます。人間の性(さが)であり、日々つきまとう悩みの根元かもしれません。
 
>自己を忘れなさい(時には考えるのをやめなさい)

時々は、心静かにする時間・場所(寸暇・寸陰)をつくり、欲という色メガネを外し、身の周りを見てみると、とても豊かな気分になれるのかしれません。

*参考資料:境野勝悟訳編「道元『禅』の言葉」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 09:19Comments(0)道元「禅」の言葉

2009年05月19日

気付きはある日突然やってくる

気付きはある日突然やってくる

 日々の生活の中で、考え続けても答えがなかなか出ないことが常なのですが、ふとしたことや、全然違う時(場面)で、ハッと気付く(閃く)ことがあります。「そうか! こういうことか」、と気付くと、胸のわだかまりがすーっと消えてしまいます。
 道元の言葉に、「翠竹のなかより、発心得道するあり(発菩提心)」なる教示があります。中国唐代の禅僧、香厳和尚がまだ修行中の時、頭脳明晰、勉強熱心で、修行も熱心に務めるが、どうしても悟れない。以下、「道元『禅』の言葉」から抜粋、

(本文)
 師から「なんでも頭でわかろうとするから、つかめなんだよ」といわれて、香厳が山のように積み上げられた書籍に火をつけて燃やしてしまった。
 香厳は、「もう、俺みたいなものには、とても悟れない。修行をやめよう」と、山を折り、旅に出ることにした。旅の途中尊敬する忠国師の墓を掃除しても気持ちは晴れない、ふと、落ちていた小石を拾って、あたりの竹林へめがけて投げつけた「カチッ、カチッ、カチーン」と、小石が竹に当たる音が響き渡った。
 そのとき、ハッと悟った。「わたくしは、竹の響きを聞く耳の働きがあった。外から得た相対的な知識より、もっと大事な宇宙の絶対不動の力があった」と。
(以上、「道元『禅』の言葉」より)

 これは、考えに考え抜いた、悩みに悩みぬいた修行僧だから、竹林の音で気付きますが、我々一般庶民は、こうは行きません。ただ、小さな日々の悩みをどう解決するかと言う時のヒントはあるという気がします。

 問題が生じたとき、人は周りや関わった社会に責任を転嫁しがちです。しかし、多くの原因を整理して行くと、以外に自分自身に起因があること多いと気付きます。香厳和尚も、悟りが先人たちの残した書物(知識)から得るものと思い込み、もう勉強をします。しかし、心の充実・理解(悟り)には、至りません。

 道元の教えを現代に訳すと、「行き詰ったら、考えるのをやめる」とあります。考えても考えても答えが見つからないときは、町(まち)へ出よう、旅へ出よう。竹林への小石の一投ではないですが、気付きとはそういうものなのかもしれません。

*参考資料:道元「禅」の言葉

<関連コミュニティ>
・道元「禅」のことば
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4268176

<オフ会のご案内>
・「宇土・親子論語教室」+2ブログ 読者の集い
 http://noguchi.otemo-yan.net/e177931.html
日時:2009年5月30日16時~18時 時熊本交通センターホテル

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 06:04Comments(1)道元「禅」の言葉

2009年05月18日

しょせん自分を救うために苦労し考えている

しょせん自分を救うために苦労し考えている

 日本は豊かさの中で、みな同様の生活、同様の志向を、周りの視線社会の中で、追い求めているように感じます。高度成長期は既に昔になり、格差が当たりまえの時代がなりました。多くの人が行き詰まり、悩みながら生きています。でも人は、悩み、考えるからこそ人と思いまし、そこに成長があると思います。

 行き詰ると、色々な書物、歴史、偉人、あるいは宗教にその答えを求めたくなります。昔も今も悩みは、みなあるのですが、我々一般庶民だけが悩んでいるのでなく、著名な作家や政治家もやはり、日々悩んでいます。

 東京都知事の石原慎太郎氏は、著名な作家でもありますが、石原氏の宗教観に関わる本を見つけました。その冒頭の部分に、次の一節がありました。

(本文)
 要するに救いなどというのはあくまで個人個人のことであって、そう簡単に自分の体験を他人に向って普遍化出来るものではありはしない。つまり自分は救われたと当人自身がしみじみ思わぬ限り、誰も救われてなどいわしないのです。(中略)

 大切なことは、はたの人間に出来ることなど、今ある悩みを抱えている人間にその打開の方法を思いつかせることを、いかに横から助けてやるかということしかないのです。(中略)
  (以上、石原慎太郎著「法華経を生きる」)

 やはり、本人が悩み、考え、自分でその答えを見つけない限り、救われることはないと思います。周りの友人、家族、近い配偶者であっても、本人の心の糸口を導く事は出来ないのです。

 若者が宗教にすがるような風潮がありますが、悩みに悩み貫いた道元禅師は、一人の師戸出会い、気付くのですが、自分自身で閃いたから答えを見つけることができたと思います。宗教は、自分自信を導くために道具であって、宗教事態で心を救ってはくれないと思います。

 自分自身が何者かを知る問いの言葉が、本にありました。

(本文)
・・・、出来事の要因分析は五つに絞られてもいます。
それは、
『何であるか』
『どのようなものか』
『いかなるものににているか』
『どのような特徴があるか』
『どのような本質を持つのか』
の五つです。
 松原泰道師はこの上にそれぞれ、「自分とは」をつけて、『自分とはどのようなものか』『自分とはいかなるものに似ているか』、といった風に考えればいいと説いています。(中略)
 しかし五つの要約を踏まえて、道元禅師が仏教を習うのは自分自身について習うことふだと説いているのはいかにもうなずける。
 しょせん誰しも自分を救うために苦労し考えているのだし、誰にしても他人のために、わかりやすいとはいえ、こんな七面倒なことを考える気になるものではない。(中略)
  (以上、石原慎太郎著「法華経を生きる」)

>しょせん誰しも自分を救うために苦労し考えているのだ

結局、自分を救えるのは、自分しかいないということだと思います。
日々、行動しながら、悩み、考えて生きて行くしか方法がないように思います。

*参考資料:石原慎太郎著「法華経を生きる」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 06:57Comments(1)「心養塾」語り学び合う場

2009年05月15日

無為な人の心は、心地良い都合の良い場所いる

無為な人の心は、心地良い都合の良い場所いる

 人間、極限にならなければ決断はむずかしいもので、早く決断し、実行に移せば良いものを、なかなか意志が固まらないないものです。
 昭和の批評家・小林秀雄氏の語録にもありました。

(本文)
 決断だとか勇気だとか意志だとかを必要とする烈しい行為にぶつかる機もなく、又そういう機を作ろうとも心掛けずに、日々を送っている人間は、心理の世界ばかりを矢鱈(やたら)に拡げて了うものだ。別に拡げようとするのではないが、無為な人の心は、取止めもない妄念や不貞な観念が、入乱れて棲むのに大変都合のいい場所なのである。(「現代女性」11-92)

 まるで自分のことを突かれているようで、ドキッとしますが、誰にもありそうなことだなあ、と思います。
 人間、楽な方に傾き、きびしい環境ヘは行きたくないものですが、やはり人生には何度か岐路に立つ時期があります。
 学問は、危機管理のためにある。危機に瀕したとき、支えてくれるのは言葉であると、作家の田辺聖子さんが何かの本で書かれていた。
 挑戦心、チャレンジ・スピリッツを常に呼び覚ますことを忘れないことが、大切な気がします。明日は、始めての環境シンポジムですが、勝海舟の座右の銘「六然(りくぜん)」にある、

「人ニ処スルコト藹然(あいぜん)」~人処藹然~
 人に接して相手を楽しませ心地良くさせる

そして自分の気分は、

「自ヲ処スルコト超然(ちょうぜん)」~自処超然~
自分自身に関してはいっこうに物に囚われないようにする

この二つの気持ちを忘れずに、初体験をして来たいと思います。
後日、内容等を報告します。

*参考資料:小林秀雄の言葉「人生の鍛錬」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 12:40Comments(1)批評家・小林秀雄

2009年05月14日

~語り学び合う場~(仮称)「心養塾」

~語り学び合う場~(仮称)「心養塾」

 社会の出来事・事件は、みな人の心が決めたことが現れます。

・孔子・孟子、老荘思想、荀子等の教え
 孔子・孟子の「性善説」、荀子の「性悪説」とありますが、両方に共通するものはやはり「学ぶこと」が必要と説いています。
 孔子の「堯・舜」の聖人(聖天子)をシンボルとする人の生きる道、老荘思想の自然体の生き方、孟子の積極的「仁者」の生き方は、日本社会に長い時間をかけて浸透していると思います。
 「荀子」には、元々人は悪い心を持っていて、それを目覚めさせない(行動の起させない)ように、教育し、法でしばることが必要とあります。

・人は多種多様、百人百色
 人は、十人十色、百人百色の性格が存在しています。社会の変化に伴い、価値観もどんどん変ります。その時々の正しい(良識)とは何か、常に問われていて、昨今の情報技術の発達は、その判断を早く求めるようになって来ました。
 しかし、孔子・孟子、老荘思想、荀子、陽明学、等々を学ぶと、人間の本質(心)は、二千数百年前よりほとんど変っていないと思います。

・社会変化と自分の心
 そんな思いの中で、これまでインターネットでの情報発信が中心でしたが、やはり意識ある人たちと語る場が必要と思うようになりました。
 私自身は、人から新しい情報を学ぶ異業種交流会「四季の会」を11年続けてきました。これも継続しますが、今の大きな興味は「社会変化と心の在り方」にあります。

・自分の心と向き合う「語る場」
 一人ひとりの心が、社会も世界の決めていて、なにかの導きによって出会い、仲間をつくり、成長させてもらっているではと思うようになりました。それと、自分自身の心と向き合う方法として、他人と語る機会が必要と考えています。
 それは異業種交流会を続けるために、1200人と越える方と、一対一、一対二で、語る機会を必ず設けて来た経験から、人と語ることは自分の考えを整理するのに、とても有効であると感じています。

・語り、学ぶ場はどんなものか
 社会の様々な問題を題材に、故事や遺訓、偉人の生き方、人生観、哲学、更に科学、民族学、新技術、次世代のことなど思いつくままに、それぞれが意見を語りながら、自分の心と向き合う場を作れないかと考えています。
 3~6名くらいの少人数で、年に6回程度(1回3時間程度)。日時は、隔月の第2土曜の午後とかどうかと思っています。

・ネット上で、事前から議論が始める
 語る内容は、毎回、事前に幾つかの「キーワード」を会う以前から意見を交わしながら当日の集まりに至る形でどうか。もし参加できない人や、遠方の方にも、当日の議論内容が解かるように、整理し後日ブログに掲載してはと考えています。
 もしこんな、語る場「心養塾」なるものを作れば、参加したいと思われる方は、ご連絡下さい。一人でも参加者が居れば、来月(09年06月)からでもやりたいと考えています。

・場所と参加費用、参加条件
 多分、気になられるのは、場所と参加費だと思います。場所は、私の自宅(熊本県宇土市)で開催。キーワードに関連する解説資料(コピー)+お茶とお茶菓子があった方が良いので、参加費300円程度でどうかと、勝手に思っています。
 参加条件は、年齢、性別、民族、国籍は問いません。参加回数は、毎回でも、時々でも、年に1回でもOKでどうかと考えています。

・宇土の田舎屋
 実は、自宅の書斎をゴールデンウイークに大模様替えをしました。おかげで、座卓ですが6名程度がゆっくり座れます。気候が良い時は、ベランダで外の空気に触れながら語ることも出来ます。またグループとかで参加され時は、八畳の2間続きのありますから、対応できると思います。

 色々ご意見もあると思いますので、意見、アドバイスも含め、メール、書き込み等頂けるとありがたいです。

<素案>
(仮称)「心養塾」~語り学び合う場~

 日 時  偶数月の第二土曜日、14:00~17:00  
 場 所  宇土の田舎屋(野口宅)
 参加費  300円程度(お菓子の費用で多少上下)

*開始予定:2009年内

*お問い合わせ先 Email : aande@lime.ocn.ne.jp
FAX : 0964-24-3570  


Posted by ノグチ(noguchi) at 09:52Comments(3)「心養塾」語り学び合う場

2009年05月13日

「君子豹変す」~進歩が大事~

「君子豹変す」~進歩が大事~

 豹変するの意味は、現在では意味がだいぶ易教の教えからすると変ってきている。

 初めは「賛成!」と言っておきながら、何かの事情で・・例えば、金をなどを積まれてコロリと態度を変え、こんどは一転「反対!」と叫ぶ。現在は、これを称して「君子豹変す」という。
 しかし、本来の意味は違っていたようです。守屋洋訳著「中国古典一日一話」に次の一節がありました。

(本文)
 本来の意味は、そうではなかった。変化することは変わりがないが、よい方向に変化するものである。
 豹の皮は、美しい模様をなしている。そういう美しい方向に変化することが、「豹変」である。つまり、今までの自分から脱皮して新しい自分を創造することをいう。進歩、向上と言ってよい。(中略)
  (一部、守屋洋訳著「中国古典一日一話」から抜粋)

 社会変化の激しい時代、自分の価値観に凝り固まってばかりいたら、取り残されます。日々の暮らしに中から出てくる、要望、ニーズに耳を傾け、自分自身がその変化に対応できるようにして行くこと必要です。 

 常に自分をリフレッシュして、創造革新の心を持ち、前向きに生きることが大事と思います。進歩、向上のために、「君子豹変す」の生き方をしたいものです。

 民主党の党首代表選考において,取りざたされている両人が、どう「豹変するか」たのしみです。

*参考資料:守屋洋訳著「中国古典一日一話」   


Posted by ノグチ(noguchi) at 09:36Comments(0)故事、名言、訓示、スピーチ

2009年05月12日

法然「やさしく」、親鸞「ふかく」、蓮如「ひろく」

法然「やさしく」、親鸞「ふかく」、蓮如「ひろく」

 仏教の中で広く民衆に定着した浄土真宗は、3人の天才たちの努力によるところが大きいと思います。五木寛之氏の<他力>に、法然、親鸞、蓮如の功績を語った部分があります。

法然は難しい修行を、「やさしく」行うことを説きました。

親鸞は法然の「やさしく」説いた往生の道を、より「ふかく」究めた、

蓮如は親鸞が「ふかく求めた」信仰を、「ひろく」人々に説きました。

一人でできることは微々たるものですが、多くの志ある人がつながることで、気付きの連続で、周りが変って行くのではないと思います。

 広く大衆に説いて回った蓮如の行動について、五木氏は次のように考えています。(以下、<他力>より)

(本文)
 その仏(阿弥陀仏)は人々を救わずにはいられないという「悲しみの感情」を体いっぱいに背負って、いても立ってもいられない仏であり、どんな平安で高い地位を約束されても、地上の愚かな人間たちを置き去りにはできない思いを運命付けられた異様な仏です。そして声のかぎりに人々に呼びかけ、両手をさしのべて衆生の手をつかもうとする。それを<大悲>とも言い<本願>とも言います。
 阿弥陀仏とは、人々と共に苦しみ、それらの人々を救わずには自分もまた救われないという、むしろ悲しい仏、<悲仏>かもしれません。
「あの声が聞こえないのか! あの仏の御手の温かさがわからないのか!」
と、蓮如は声をからして苦しむ人々に叫ぶのですが、彼もまたみずから決意してそうしているではないかと自覚があったはずです。(中略)
  (以上、五木寛之著「他力(TARIKI)」)

 老齢な研究者の講話(解説)は分かりやすいが、若い講師のかたる論文は非常に難しいと感じる。人は、外にある大量の情報(知識)を得ようと、東奔西走し、詰め込み、かみ砕き、自分のものにするために努力を重ねて行きます。

 ある時を過ぎて、若い時期から詰め込んだ知識が、自分の身体と一体になり、自分の言葉で語れるようになって、さらに一般大衆に理解できることばで語れるようになるのは、熟年を越えたころかもしれません。
 法然「やさしく」、親鸞「ふかく」、蓮如「ひろく」は、仏教の探求の中で行き着いたものと思いますが、若いころからの苦悩があればこそ、気付く(発覚)するのだと思います。

 時々は、自分の姿を後ろから、横から、上から観察し、「おれは、大丈夫か?」と考えるゆとりが、過失を防ぎ、自分の道を確認することのように思います。

 「自分」とは何か、時々は立ち止まり、考える時間が必要と思います。時間がなけれは、「忙中に閑あり」で、走りながらも考えるゆとりがあれば、よいかもしれません。

*参考資料:五木寛之著「他力(TARIKI)」」


<関連コミュ>
・「他力(TARIKI)」五木寛之
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=4176735

<前の日記>
・まずは「自分」を観察する ~道元~





  


Posted by ノグチ(noguchi) at 08:19Comments(2)他力(TARIKI)

2009年05月11日

まずは「自分」を観察する ~道元~

まずは「自分」を観察する ~道元~

~仏道をならふといふは自己をならふなり~

 曹洞宗の創始者の道元の言葉を難しいと言うイメージを持って、なかなか踏み込めずにいました。昨日ふらっとよった書籍店に、『道元「禅」の言葉』なる、私のような全くの初心者にも理解できる言葉で書かれた、解説書を見つけました。
 さっそく読み始めた。冒頭の言葉が、「現成公案」と言うことばですが、解説者の境野勝悟氏の言葉をかりてご紹介します。

(本文)
 葬式をするのは、お坊さんだけではない。神社の神主さんも、キリスト教の神父さんや牧師さんもする。が、今日でも、仏教の教えにしたがって「仏式」が、ほとんどである。カーンという鐘、ポクポクという木魚の音は、家族を失って悲しみの中にある遺族や参列社の心を安らかにする。私(境野氏)の友人はよく教会へ礼拝に行っていたが、自分の葬式は、山里の小さな尼寺でしたいと、じみじみ言っていた。
 仏教といえば、如来様や菩薩様を拝む。もう一つ、葬式をする・・・このように思っている人が多いであろう。が、道元は、こう言っている。

「仏教をならふというは自己をならふなり」

仏教とは、自分を習うこと。自分の生命の中に喜びを発見することであった。
  (以上、『道元「禅」の言葉』)

 この解説でもよく理解出来ないのですが、まず習うまえに自分自身がどんな人間か、性格は、欲の大小、体力も含め、まずは「自分」を観察することが大事な気がします。自分を観察する、「反省」の意味も含まっていると勝手に解釈すると、

時々立ち止まり、自分を観察・検証・反省をする習慣をつけると良いのかなと思います。

*参考資料:境野勝悟訳著『道元「禅」の言葉』  


Posted by ノグチ(noguchi) at 13:09Comments(1)道元「禅」の言葉