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2024年10月29日

常を知らざれば、妄(みだり)に作(な)して凶なり。〜『老子』十六章〜

常を知らざれば、妄(みだり)に作(な)して凶なり。〜『老子』十六章〜

「違った考え方を批判しあうから凶を招く」

いろんな場面、場所で、会議や話し合いがある。

知識の多い方々ほど語りが長くなる。

課題の本質を理解している人の話は、的確な言葉で短い。

講演後に、会場から質問する人の言葉を聞いていると、

"この人は何を聞きたいの?"

思うことがある。司会から、「短くお願いします」と促すと、あまり意味のない質問が始まる。

かつて、九州7県の新聞社が主催したセミナー「九州発見塾」で、私が講演後によく質問をしていました。毎年参加していたことと、コーディネーターが変わらなかったので、私が、「1分で語ります」と言って毎回やっていると、参加者もリピーターが多かったので、"またやってる!"の文句は出ませんでした。いかに整理して語るか、とても大事だと学びました。

質問には、①疑問の確認と、逆に講話の内容を、②批判する意味が含まれると考えています。

最近、色んな場面で、挨拶やコメントを聞いていて、①と②を検証している私がいるなぁ、と思っています。

冒頭の言葉は、『「老子・荘子」の言葉100選〜心がほんっとするヒント』にありました。この文の末尾に、

(以下、転載)

「常(じょう)」とは、なにか、いつでも変わらない。だれでも変わらない。昔も、今も、同じように、不変の力で働いいる力を、「常」という。(中略)

いつでも同じ、だれでも同じ・・・そういった自然の根源的な生命力、つまり「常」の力を知らないで、ただ、ひたすら「きみの考えとぼくの考えは違う」「ああすればプラス」「こうすればマイナス」と、違っている考え方を批判しあって毎日を送っていると、「凶」(不吉な状態、不幸の状態、混乱の状態)を招くことになる。人間、頭で、生きていると思ったら、とんでもない。手や足や肩や胃の働きで生きている。
(以上、本より)

以前に読んだ本に、「雄弁家ほど行動しない」「言うは易し、行いは難し」、等々、有言実行の難しさを、先人たちも厳しく指摘している。

>人間、頭で、生きていると思ったら、とんでもない。

言葉巧みで、疑問ばかり吐いていると、人から嫌われる状況(凶)に陥ることが多々起こると危惧します。

前向き意見ではなくて、逆説的な"異見"ばかりしている人の末路を指摘する老子の訓示だなぁ、と朝から学びました。

  


2024年10月18日

「人間から生きがいを奪うほど残酷なことはない。人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない」〜神谷美恵子〜

「人間から生きがいを奪うほど残酷なことはない。人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない」〜神谷美恵子〜

(長文です。お時間ある時にお読みください。)

朝読書で、聖路加国際病院精神腫瘍科医師の保坂隆監修『つらい時に力をくれる「こころの名医」100の言葉』にあった精神科医の神谷美恵子のページを読んだ。

(以下、本より)

 神谷美恵子は、幼年時代は、日本とスイスで恵まれた生活を送ったが、非凡な少女ではなかった。一大転機は、津田英学校(今の津田塾大学)2年の時にくる。キリスト教の伝道者だった叔父に誘われ、オルガン伴奏者として東京都の多摩全生園を訪ねた時だった。同園はハンセン病(当時は「らい病」と呼ばれていた)患者の療養施設である。20歳の娘は、強い衝撃を受けた。(中略)

 その後、岡山県の長島愛生園で過ごしたおり、ハンセン病の療養者たちに「いま望むこと」を問うた。回答者に連なるのは「ケ・セラ・セラ」「どうにでもなれ」「一番の願いはきょう一日を忘れること」。読んで通説に思ったのが「生きがい」ということだった。
(以上、本より)

人間、"生きがい"ということを忘れはど、何かに熱中している時こそ、生きているを感じるときではないかと思います。

希望の無い日々を過ごすことは、一日が辛く長く感じることと思います。

私の挑戦した「100キロウォーク」での開会式での司会の方から、身体を痛めつける「"ドM"のみなさん、最後まで歩き続けて」の言葉が頭に残っています。

しかし、黙々と歩き続けている中で、到着した気持ちの高揚感(達成感)が、終わってからじわりじわりと満足感に変わってくる。生きているということを感じる、ある意味"生きがい"の一つとみなしています。

人はそれぞれに、様々な境遇があります。気持ちの落ち込み、失業、事故、病気、等々。厳しい状況でも、希望を持つことで前へ進むことができます。

8年前、熊本地震が発生、とんでも無い混乱の状況となった。その対応に追われる最中、今度は自宅が大雨で床下深水の被害を受け、住宅以外の小屋、車庫、倉庫、敷地全域が泥で埋まりました。ほんと、その時は"どうしたらよいか?"と途方に暮れました。

しかし、人間は気持ちを切り替えると、前に進めるものだと、振り返ります。

希望があると、知恵や工夫が生まれます。そこへ、仲間の手助けが差し伸べられ、さらに気持ちが前へ向く。それから、"これから何をしよう"の思いが出てきて、生きがいとなって行くのではと思います。

『佐藤一斎一日一言』10月20日の訓示は、

(以下、本より)

人は須く快楽なるを要すべし。快楽は心に在りて事に在らず。

【訳】
人は心に楽しむことがなくてはいけない。楽しみとは心の中にあるもので、外にあるものではない。

中江藤樹は、「順境に居ても安んじ、逆境に居ても安んじ、淡々蕩々として苦しめる所なし。是を真楽と言うなり。万の苦を離れて、この真楽を得るを学問の目あてとす」と言っている。
(以上、『佐藤一斎一日一言』より)

生きがいと人生の楽しみは、同じものと受け止めていますが、果たしてこれからの人生において、私の生きがい、楽しみはなにか?、今日一日考えてみたいと思いました。

そろそろ朝活の準備です。天気は回復しそうで、人間は勝手なもので、晴れると気持ちも元気なますね。

*神谷美恵子は、ハンセン病患者の治療に生涯を捧げた精神科医。佐藤一斎は、幕末の儒家で教育者。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 23:01Comments(0)偉人リーダーの名言意見・異見

2024年10月16日

「人は誰もが、大河の一滴である」〜五木寛之著『死の教科書ー心が晴れる48のヒントー』〜

「人は誰もが、大河の一滴である」〜五木寛之著『死の教科書ー心が晴れる48のヒントー』〜

「でも一人ひとりに、それぞれの人生がある」

朝から五木寛之さんなのですが、数ヶ月前に、本屋で購入したものです。初版は、2020年ですが、2年前に五木寛之さんの講演を聴きました。内容もよかったのですが、90歳を超えた方が、立ったまま1時間半、講話が途切れずに続きました。"すごい!"と感銘を受けました。

何がそこまでさせるのか!

五木寛之さんは晩年になり仏教を学ぶために大学へ入られました。まさに"老いて学べば朽ちず"の生き様です。

本『死の教科書』に、以下の方が書かれています。

(以下、本より)

「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」
まさに人の一生とは
この言葉どおりだなと感じます。
(以上、『死の教科書」より)

蓮如の『白骨の御文』にある一節は、

「さらば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」

五木寛之さんの弟さんは、42歳で亡くなった。お通夜の晩に『白骨の御文』を聴き涙したそうです。

人はいつ逝くかわかりません。

>人は誰もが、大河の一滴である

と五木寛之さんは、本の表紙に書いています。でも一人ひとりに、それぞれの人生があります。

だから今日を大切に、一生懸命に生きなければと思った朝です。