2024年09月30日

本来"リベラリズム"で大事なのが人間の心なのです。〜宇沢弘文著『人間の経済学』〜

本来"リベラリズム"で大事なのが人間の心なのです。〜宇沢弘文著『人間の経済学』〜

(少々長文です。お時間ある時にお読みください。)

今日から、議会の経済建設常任委員会の視察研修で、愛知県豊田市、奈良県宇陀市、大阪府泉佐野市へ伺います。

福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

今朝は、早朝ウォーキング後、ばたばたと朝食済ませて出てきましたが、何か井戸中に読もうと手に取ったのは、いま熊本で読まれているという『社会的共通資本』の著者・宇沢弘文氏の最後の『人間の経済学』を持参して、何年ぶりかで機内で読んでいます。

以前読んだ時に注目した箇所には、ページに折り目はつけてあり、その一つが、

「リベラル」「リベラリズム」とは?

本にやると、

(以下、本より)

 リベラルとはなにか、ということは若い頃から長く私の心にかかってきました。日本語ではリベラルもフリーダムも「自由」と訳されます。前にふれたデヴィッド・ハーヴェイの本のタイトル「Neoliberalism」も「新自由主義」になりますが、「自由主義」を英訳にすると、どちらかというとLibertarianismと言うのでしょうか自由を最高至上なものとする考え方になります。
 本来リベラリズムとは、人間が人間らしく生き、魂の自立を守り、市民的な権利を十分に享受できるような世界をまとめて学問的営為なり、社会的、政治的な運動に携わるということを意味します。そのときいちばん大事なのが人間の心なのです。
(以上、『人間の経済学』より)

大学教授の書かれる文言は理解が難しいなぁ、と読みます。文中の以下の部分、

>市民的な権利を十分に享受できるような世界

現代社会は果たしてこれ理念を達成できているか?

ホームレス、就職難民、子どもの貧困、子ども食堂、等々

現代でも、新たな格差社会を表す言葉が生まれている。

明治のリベラリズムの代表格が、福沢諭吉ではないかと、宇沢弘文氏が本の中で紹介しています。

(以下、本より)

 どうしてもかい臨丸に乗ってアメリカへ渡りたい諭吉は、使節団長の木村摂津守の召使として何とか乗船を果たしました。しかし、船内の階級制は相当きびしく、そのうち一人の水夫が貧しい食事からくる栄養失調と過労で倒れてしまいます。さらに憤慨した諭吉は、酒に酔って摂津守をぶんなぐるのです。クビこそ免れたものの、結局、水夫はサンフランシスコで亡くなってしまいました。そのとき諭吉はサンフランシスコで水夫の墓を建てて弔ってから、一人遅れて使節団のあとを追ったというのです。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という人間に対する考え方、はじめての異郷の地でもまったくゆるがない信念を思うにつけても、(中略)
(以上、『人間の経済学』より)

福沢諭吉のどんな状況においてもブレない生き方に感服します。酒の席とはいえ、自らの上司をぶん殴るのですから、さすが"福沢先生"です。

どうも福沢諭吉の酒癖の悪さは、本人もはやくから自覚があったようで、適塾時代に緒方洪庵先生から"煙草を吸えば禁酒できる"といわれて煙草をはじめたものの、ついに一生のうちで酒と煙草をやめることができなかった、と『福翁自伝』に書いてあるそうです。

酒癖は、飲み過ぎた時に出るもの、やはり何でも度を越すと間違いを起こすものです。リベラルと福沢諭吉、さらにお酒の話と、宇沢弘文氏の『人間の経済学』はなかなかおもしろいですね。

中部国際空港に到着しました。これから、豊田市まで移動です。  


2024年09月25日

<人の時のアセス>愚直に生きた夏目漱石、その思考は『老子』を参考にしていた。〜半藤一利〜

<人の時のアセス>愚直に生きた夏目漱石、その思考は『老子』を参考にしていた。〜半藤一利〜

(少々文が長いので、お時間ある時にお読みください。)

私の読書は、雑読である。あまりよろしくないが、古本屋での立ち読みから興味が湧き購入することが多い。その作家の一人が、歴史に関する本が多い半藤一利の著書です。

半藤一利氏の文を集めた本『歴史と人生』に、夏目漱石が関心を持った『老子』の話がありました。

(以下、半藤一利著『歴史と人生』より)

ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ
夏目漱石(明治三十一年作)

この句には前書きがある。
「知者不言、言者不知」
出所は『老子』である。
「知るものは言わず、言うものは知らず」
と読む。えらそうに言挙げするものへの皮肉がたっぷりこめられている。漱石はまたこうもいっている。

「余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし、況(いわ)んや毒舌をや、何事も控え目にせよ、奥床しくせよ」
〜『愚見数則』〜

斯愚には 及ぶべからず 木瓜(ぼけ)の花
夏目漱石(明治三十二年作)

『老子』に有る、
「大功は拙のごとし」
「われ愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり」
漱石もまた節を曲げない愚直な生き方を、生涯の心の拠りどころとしていた。
(以上、『歴史と人生』より)

>知るものは言わず、言うものは知らず

智者は語らず。
お喋り多い人は知らず。

>ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ

人の注目を集めることに熱心な人がいます。"時代の寵児"と言う表現もありますが、そんな人は、いつの間にかいなくなります。

私は、異業種交流会を主催してきました。かれこれ25年(四半世紀)になります。

いろいろな方と会ってきました。その初めから縁のある大学教授に、

「本物は残るから、長く観ておきなさい」

と助言されました。一瞬の輝きより、10年後、20年後の姿を観ることが大事だなぁ、とこの歳になると思います。

人の時のアセス

人間の言動の検証のことを大学教授が語られたのだと思います。

>余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし

「人生は訥弁」の教えが中国古典の何かにありました。お喋りは禍いの素(原因)です。

勇者は語らず。

人間分析は、なかなか時間のかかる(アセスメント)作業のように思った、半藤一利氏のご指摘でした。再度、

>ものいはぬ 案山子に鳥の 近寄らぬ

人生は、ぼちぼち。好きなことを愚直に続けたが楽しいのかもしれません。

今日、明日は、膝を休めるために早朝ウォーキングはお休みですが、いつもの時間に目覚めて、雑読しています。  


2024年09月11日

自分の本願は何か?、一生の目標は? 〜佐藤一斎一日一言〜

自分の本願は何か?、一生の目標は?
〜佐藤一斎一日一言〜

(以下、9月11日の訓示より)

仮令(たとい)我れ寿を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ。
今、幸に生れて人たり。庶幾(こいねがわ)くは人たるを成して終らん。斯れのみ。本願此に在り。
(以上、『言志晩録283』より)

【現代語訳】

たとえ自分が百歳まで生きようとも、悠久なる宇宙の中ではほんの一呼吸するぐらいの短い時間でしかないだろう。
 今、幸いに人間としてこの世に生まれてきた以上、人間としての使命を全うして一生を終わりたい。これだけである。自分の一生の念願はここにある。
(以上、『佐藤一斎一日一言』より)

日々、いろいろ不満はあれど、まずはこの世に人ととして生まれできたことをうれしく思います。

ならば、残りの人生、何をすべきか考えて生きなければ、と思います。江戸時代も同じように悩み、考え、晩年を生きた人がいたことを、『佐藤一斎一日一言』から学びます。

今日から、心して生きなければと思います。  


2024年09月08日

<浩然の気>人の上に立ってこそ、自らの力量(徳)を理解する。〜『大学』より〜

<浩然の気>人の上に立ってこそ、自らの力量(徳)を理解する。〜『大学』より〜

目覚めて、ふと思い出し読んだ四書五経の『大学』の解説書、守屋洋著『修己治人の学「大学」を読む』を開きました。

(以下、本より)

 人間はだれでも天から素晴らしい素質を賦与されてうまれてくる。それを朱子学では「性」と呼び、この「性」こそが「理」なのだという。「性即理」とはそれを言っているのである。そして「性(理)」とは、具体的には仁、義、礼、智、信の「五常」をさしている。
(以上、『修己治人の学「大学」を読む』より)

久しぶりに開い本の教え「五常」の他に、気をつけている古典の言葉があります。

「浩然の気」(コウゼンノキ)

『孟子』の一節に出てきますが、

「我、善(よく)吾が浩然(こうぜん)の気を養う」

【現代語訳】天地の間に満ちている、この上なく大きくて強い気のこと。これが人の心にやどると、広く豊かで大らかな気持ちとなり、公明正大で何ものにも屈しない道徳心となる。

昔の人は、貧乏であれ、ぶれない判断をしてきた。現代人は、そのぶれない判断ができるか?

人の世話をしても人に世話になるな。

自らの稼いだ金で飲み食いをする。

人のふんどしで相撲をとらない。

要は、引け目のあるような言動をしていると、人に意見できない、という話です。

私は、この気持ち(気質)を、「浩然の気」と勝手に理解しています。

安岡正篤語録に、「人の世話をしなさい」とあります。

果たして、私はそれを実行できているか?

>公明正大で何ものにも屈しない道徳心

誰かのふんどし(世話になり)で飲み食いしたら、引け目ができるものです。私は、31歳6ヶ月で建築士事務所を開設しました。以来、ずっと一人でやってきました。その気持ちを支えたのが

「浩然の気」

の教えです。私は、いま66歳3ヶ月になりました。初心を忘れずに、これからも生きていけたらと、朝から思ったことです。