2024年10月16日

「人は誰もが、大河の一滴である」〜五木寛之著『死の教科書ー心が晴れる48のヒントー』〜

「人は誰もが、大河の一滴である」〜五木寛之著『死の教科書ー心が晴れる48のヒントー』〜

「でも一人ひとりに、それぞれの人生がある」

朝から五木寛之さんなのですが、数ヶ月前に、本屋で購入したものです。初版は、2020年ですが、2年前に五木寛之さんの講演を聴きました。内容もよかったのですが、90歳を超えた方が、立ったまま1時間半、講話が途切れずに続きました。"すごい!"と感銘を受けました。

何がそこまでさせるのか!

五木寛之さんは晩年になり仏教を学ぶために大学へ入られました。まさに"老いて学べば朽ちず"の生き様です。

本『死の教科書』に、以下の方が書かれています。

(以下、本より)

「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」
まさに人の一生とは
この言葉どおりだなと感じます。
(以上、『死の教科書」より)

蓮如の『白骨の御文』にある一節は、

「さらば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」

五木寛之さんの弟さんは、42歳で亡くなった。お通夜の晩に『白骨の御文』を聴き涙したそうです。

人はいつ逝くかわかりません。

>人は誰もが、大河の一滴である

と五木寛之さんは、本の表紙に書いています。でも一人ひとりに、それぞれの人生があります。

だから今日を大切に、一生懸命に生きなければと思った朝です。  


Posted by ノグチ(noguchi) at 10:02Comments(0)故事、名言、訓示、スピーチ他力(TARIKI)

2014年09月22日

〈他力の風〉本当の「やる気」が体の奥底からふつふつと湧いてくるとき

〈他力の風〉本当の「やる気」が体の奥底からふつふつと湧いてくるとき

 おはようございます。今朝は、久々に早朝散歩をすこししました。真っ暗の空がだんだん白けていく空気は、すがすがしく気持ちの良いものです。

 昨日まで、後援会活動で、地域の先輩に同行頂き、縁ある方、縁ある地域を回り、お一人お一人と顔を合わせ語ってきました。今日から、いよいよ選挙へ向けた準備となります。選挙カーの看板も完成し、拡声器、照明を取り付けると、街頭活動の準備は終わります。 次は、選挙活動のスタッフの陣容です。前回同様、地域の方を中心にご協力をいただき、地域一帯の選挙態勢を作るように努力をしてきました。これからは、関わる方々の盛り上がりが大事と思っています。気を抜かず、9月28日の出陣式へ向け、準備をしていきたいと思います。

 今朝ふと開いた本『他力』(五木寛之著)の一節に次の言葉がありました。

(以下、転載)
 ・・・、努力しようと何度も決意しながら、三日と続かないときもある。
 また逆に、自分でも驚くほどがんばれるときもあるものです。後からふり返って、どうしてあのときの自分は――と不思議に思うこともありました。そういう本当の「やる気」が体の奥底からふつふつと湧いてくるとき、それこそ私の言う〈他力の風〉が吹いてきたときです。(中略)
(以上、『他力』より)

 これからの2週間、このふつふつと湧いてくる「やる気」を起こし、自分自身が行動し続ければ、いつか〈他力の風〉が人の輪となって広がると信じ、着実に前へ進むことができます。前回起きた〈他力の風〉の再来は、自分自身の最大限の努力がないと吹かないと覚悟しています。

 後援会活動の地域回りは、7月半ばから動き始め、昨日まで配布予定の100%には至りませんでしたが、できうる限り地域回りをしてきました。今日からまた気を新たにし、さらに支持、支援を広げられるように、さらに「やる気」を起こし、さっそく活動を始めます。

 今日も元気、頑張りましょう!!   


Posted by ノグチ(noguchi) at 06:50Comments(0)他力(TARIKI)

2010年03月10日

人が社会で生きていくには、愛が必要である

人が社会で生きていくには、愛が必要である


■虐待動画問題 松阪市、再び介護施設を監査
 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1134503&media_id=88

>この問題は、松阪市の「グループホームカトレア」で、19歳の女性介護士が、トイレの便座に座った90歳代の認知症の女性に対し、鼻をつまむなどした上、その様子を動画で撮影したもの。

わが家も80代の高齢者と同居する家族ですが、このような出来事を耳にすると、先輩を敬う、高齢者を大事して昔から考えると、悲惨な状況になったと思います。

人への虐待は、世代を越えて連鎖するとも聞きます。相手を思いやることは、自分の心を大切にすることと同じと、お坊さんから聞いたことがあります。


仏教にも造詣の深い、作家の五木寛之氏の著書『他力』に、「自分自身すら愛することができないとき」と言うテーマで、書かれたものです。


(本文)

 彼(思想家)は、「愛はナルシズムから始まるのだ」と言います。私たちはナルシズムを自己愛を翻訳しますから、何か自分だけが可愛いというエゴイスティックな愛がナルシズムだと思いがちですけれど、その著者は、「自分を愛せない人間は、他人も愛せない」と言っています。
 さらに、「自分を肯定できない人間は、他人も否定する。自分を愛せない人間は、他人をも嫌い憎悪する」、だから「我々はナルシズムという幼い愛からでも出発し、それを社会的な愛に発展させていくしかない」と語っています。

 この論法を借りますと、自分の生命を希薄に感じる、自分の命の重さが感じられないということは、すなわち他者の生命の尊さも実感できないということです。自殺の増加や、自損や他損の交通事故の多発は、じつは背中合わせであると言えます。
 (以上、「他力」より) 


 自分に降りかかる色々な問題や、出来事をすべて周りの性にして、「愚痴」ばかりを語る人を良く見ます。以外に、その原因は自分にあることに気づかない、気づこうとしない性格が見え隠れします。

 五木氏の言葉ではないですが、

>自分の生命を希薄に感じる、自分の命の重さが感じられないということは、すなわち他者の生命の尊さも実感できないということです。

相手のこと、相手の思い、回りの状況を、多様な視点で検証してみることも必要と思います。社会変化は、一人ひとりの思いの集合体であることを忘れてはいけないと思います。

他人を愛するには、まず自分を肯定する事が、一歩なのかもしれません。

*参考資料:五木寛之著『他力
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 23:17Comments(0)他力(TARIKI)

2009年08月16日

(言葉の力)五木寛之著「人間の覚悟」の心に響く言葉

(言葉の力)五木寛之著「人間の覚悟」の心に響く言葉

 週間新潮の広告に、五木寛之氏の著書「人間の覚悟」の広報が掲載されていた。中身はまだ読んでいませんが、その中の言葉が少し紹介されていました。

 国最後まで国民を守りはしない。

統計や数字より自分の感覚が大切。

人生から決して鬱は取り去れない。

「夢」の多くはむくわれないもの。

死を見つめて、一日を充実させる。

権利と、保障されることとは違う。

信じる、疑う、両方を握り締める。

知識や情報を減らし智恵を深める。

 努力しても老いにアンチなどない。

善行も、愛も多くはむくわれない。

人間関係はただ相手に尽くすこと。

人間の縁は密着しすぎると難しい。

永遠の友は思い出の中にだけいる。

人脈は自分で作れるものではない。

失うと分かったものしか愛せない。

友人も恋人も夫婦もいずれ別れる。

人の面倒を見ずには生きられない。

苦しみも悲しみも自分で引き受ける。

世の混沌を脱出する方法などない。
(以上、週間新潮5月2日号より)

 広報の冒頭に、次のような言葉で本が紹介されていた。

「社会に出るとき、生きる厳しさを知ったとき、必要なのは浅薄な知識や、世渡りのテクニックではな。『覚悟』である」(中略)

 五木寛之氏の言葉に、惹かれる一人として、お盆休みに妻の実家にあった週間新潮の「人間の覚悟」の見出しの言葉に惹かれ、借りてきました。
 論語の中にもある、多くの教示が現代語で書かれているという気がします。

>人脈は自分で作れるものではない

 異業種交流会を主催して12年目になりますが、人脈づくりは自分とその周りの人との係わり合い、更に私の行動を見ている人たちの支援によって、少しづつ、少しづつ広がってきました。上記の言葉に、非常に共感します。

>知識や情報を減らし智恵を深める。

真理を究める良識こそ大事と思っています。

>人間の縁は密着しすぎると難しい

「君子は、淡交なり」、密接な交流は互いにキツイと思う。

これまで、五木寛之氏の著書を数冊読んできました。その中でも、興味があった「他力(TARIKI)」のコミュニティ(ミクシィ)を作っています。ご興味があれば、ご参加下さい。

・「他力(TARIKI)」五木寛之
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4176735

お盆休暇のUターンの日ですが、多くの思い出を持って帰宅されることを願っています。

*参考資料:五木寛之著「人間の覚悟」(新潮新書)  


Posted by ノグチ(noguchi) at 10:13Comments(1)他力(TARIKI)

2009年06月02日

人の手本にはなれないが見本にはなれる

人の手本にはなれないが見本にはなれる

 五木寛之氏の<他力(TARIKI)>や、道元禅師の言葉だったり、最近仏教の関することに興味が出ているのですが、数日前にとても身近な人の死で、ますます生きることの意味を考えるようになりました。

 なくなった人は、私の従兄弟たちの「兄貴」的な存在だったことから、居なくなりますます強く感じます。そんな人は、そうそう居るものでなく、普通の人はそこまでいろいろな示唆のある言葉を残せないと思います。

 <他力>にあった言葉を思い出しました。

「人の手本にはなれないが見本にはなれる」

(本文)
 高光大船という真摯な念仏者でみんなから尊敬されていた人物が北陸にいましたが、彼の言葉で印象的なのは、
「自分は人のお手本にはなれない、だけど見本ぐらいにはなれるだろう」
という言い方でした。
 手本だと、それに習おうとするけれども、見本はおいしそうとかまずそうとか、見る側に立場でいろいろ言える。(中略)

 ひとつの手本ではなく、見本として、みんながとらえてくれればと思っています。笑ってくれればいいし、感心したり、共鳴してくれればかっこうな話で、馬鹿にされてもかまわない、と。(中略)
(以上、「他力(TARIKI)」)

 一人ひとり、みな違う身体、個性、人生を持っています。

 病気に関しても、風邪を引く人引かない人、腰が痛い人、肩こりの人、水虫の人、痔の悪い人、最近はうつ病、神経衰弱、等も増えていると言います。外見からはなかなか分からないものです。

 生き方も、いろいろですから、分類できないのが人生ですね。

 高光大船の語った、「見本にはなれる」と思い、他の人生をうらやまず、自分の道を進むしかないのかもしれません。

*参考資料:五木寛之著「他力(TARIKI)」  


Posted by ノグチ(noguchi) at 18:39Comments(2)他力(TARIKI)

2009年05月12日

法然「やさしく」、親鸞「ふかく」、蓮如「ひろく」

法然「やさしく」、親鸞「ふかく」、蓮如「ひろく」

 仏教の中で広く民衆に定着した浄土真宗は、3人の天才たちの努力によるところが大きいと思います。五木寛之氏の<他力>に、法然、親鸞、蓮如の功績を語った部分があります。

法然は難しい修行を、「やさしく」行うことを説きました。

親鸞は法然の「やさしく」説いた往生の道を、より「ふかく」究めた、

蓮如は親鸞が「ふかく求めた」信仰を、「ひろく」人々に説きました。

一人でできることは微々たるものですが、多くの志ある人がつながることで、気付きの連続で、周りが変って行くのではないと思います。

 広く大衆に説いて回った蓮如の行動について、五木氏は次のように考えています。(以下、<他力>より)

(本文)
 その仏(阿弥陀仏)は人々を救わずにはいられないという「悲しみの感情」を体いっぱいに背負って、いても立ってもいられない仏であり、どんな平安で高い地位を約束されても、地上の愚かな人間たちを置き去りにはできない思いを運命付けられた異様な仏です。そして声のかぎりに人々に呼びかけ、両手をさしのべて衆生の手をつかもうとする。それを<大悲>とも言い<本願>とも言います。
 阿弥陀仏とは、人々と共に苦しみ、それらの人々を救わずには自分もまた救われないという、むしろ悲しい仏、<悲仏>かもしれません。
「あの声が聞こえないのか! あの仏の御手の温かさがわからないのか!」
と、蓮如は声をからして苦しむ人々に叫ぶのですが、彼もまたみずから決意してそうしているではないかと自覚があったはずです。(中略)
  (以上、五木寛之著「他力(TARIKI)」)

 老齢な研究者の講話(解説)は分かりやすいが、若い講師のかたる論文は非常に難しいと感じる。人は、外にある大量の情報(知識)を得ようと、東奔西走し、詰め込み、かみ砕き、自分のものにするために努力を重ねて行きます。

 ある時を過ぎて、若い時期から詰め込んだ知識が、自分の身体と一体になり、自分の言葉で語れるようになって、さらに一般大衆に理解できることばで語れるようになるのは、熟年を越えたころかもしれません。
 法然「やさしく」、親鸞「ふかく」、蓮如「ひろく」は、仏教の探求の中で行き着いたものと思いますが、若いころからの苦悩があればこそ、気付く(発覚)するのだと思います。

 時々は、自分の姿を後ろから、横から、上から観察し、「おれは、大丈夫か?」と考えるゆとりが、過失を防ぎ、自分の道を確認することのように思います。

 「自分」とは何か、時々は立ち止まり、考える時間が必要と思います。時間がなけれは、「忙中に閑あり」で、走りながらも考えるゆとりがあれば、よいかもしれません。

*参考資料:五木寛之著「他力(TARIKI)」」


<関連コミュ>
・「他力(TARIKI)」五木寛之
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=4176735

<前の日記>
・まずは「自分」を観察する ~道元~





  


Posted by ノグチ(noguchi) at 08:19Comments(2)他力(TARIKI)

2009年04月27日

人事をつくすは、これ天命なり  

人事をつくすは、これ天命なり  

 なんか違う言葉ですが、これは五木寛之氏の考え方です。<他力(TARIKI)>のテーマですが、その中で、五木氏の他力論に対し、若い批評家の言葉がありました。
「五木さんは、よく<他力>のことを口にするけれど、でも本当に<他力>の自覚をうるためには、やはりそれなりの<自力>が必要なんじゃないですか」
以来、五木氏は、他力を説明する際に、ヨットの話をするようになったそうです。

 エンジンのついていないヨットは、まったく無風状態であれば走ることができません。他力の風が吹かなければヨットはお手上げ、私たちの日常も本当は思うとおりにはいかないもの。後は、五木氏の<他力>の「人事をつくくすは、これ天命なり」から引用します。


(本文)
 風が吹いてきたときに、ヨットの帆をおろして居眠りしていたのでは、走る機会も逃していまいます。ですから、無風状態でがどれだけ続いていても、じっと我慢し、注意ぶかく風の気配を待ち、空模様を眺めて、風を待つ努力が必要なわけです。
 その努力を<自力>と考えれば、若い批評家が言うように、ある程度の自力も必要ということになる。
 しかし、最近やっと納得できるようになってきたのですが、じつはその<自力>と見えてる努力も、本当は<他力>の働きではないのでしょうか。
 無風にめげす、じっと風を待ち、いつでも風に応ずる緊張感、その努力をヨットマンにあたえ、そして「いつか風が吹く」というくじけぬ信念を持続させるもの、それこそまさに<他力>の働きだと思うようになったのです。
「やる気」をおこすこと、また、「人事をつくして天命を待つ」という気に、おのずとさせる不思議な力、それこそまさしく<他力>の働きの本質でしょう。
「人事をつくして天命を待つ」
という言葉を、
「人事をつくすは、これ天命なり」
と私は勝手に読み方をしています。<天命>を<他力>の意味に受けとめるのです。死にもの狂いで人事をつくそうと決意し、それをやり遂げる。それこそ<他力>の後押しがなければできないことです。(中略)
(以上、「他力(TARIKI)」より抜粋)


 引用が長くなりました。なんで、論語教室のブログに、仏教の解説かを言いますと、仏教であれ、儒教であれ、キリスト教であれ、心と向き合う指針であると考えています。今日の別のブログに、「思想とは、人間を飼い慣らすシステム」と言うテーマで書いたのですが、儒教も仏教も、日本で文化として根付き、日々の生活の中で使われています。

 西郷隆盛に「敬天愛人」の「天を敬う」に代表される、<天>の導きで人は動かされているとよく言います。
 この<天>とは、自分を動かす「心」とどうに向き合うかだと私は考えています。体調、年齢、家族環境、社会情勢、経験、目標、思い(志)、等々から自分と語り、今何をしたいのか、将来に何を残すのかを、考え続けるのだと思います。

>人事をつくすは、これ天命なり

なんかこの言葉が、心に響き、良いなと感じたので、このブログで書いてみました。

*参考資料:五木寛之著「他力(TARIKI)」


<関連ブログ> 「コモンズ・くまもと」
(三流政治)思想とは何か、人間を飼いならすシステム
 http://noguchi.otemo-yan.net/  


Posted by ノグチ(noguchi) at 09:08Comments(2)他力(TARIKI)