2021年02月22日
<川の流れの如く>「清濁併せ容るるは水也」プラスもマイナスも大きく包み込む器量が欲しい。〜水五訓〜
<川の流れの如く>「清濁併せ容るるは水也」プラスもマイナスも大きく包み込む器量が欲しい。〜水五訓〜
「知行合一」を導き出した陽明学の祖・王陽明の教えに「水五訓」があります。
作家の谷沢永一著編『名言の知恵 人生の知恵』から、
(以下、本より転載)
水五訓ーー王陽明(伝)
一、常に己の進路を求めて止まざるは水也。
一、自ら活動して他を動かすは水也。
一、障碍に遭い激してその勢力を百倍するは水也。
一、自ら潔うして他の汚濁を洗い 然も清濁併せ容るるは水也。
一、洋々として太海充し 発しては雨となり雲と変じ 凍っては玲朧(れいろう)たる氷雪と化す 而もその性を失わざるは水也。
*王陽明:16世紀の中国の学者・政治家。
(以上、『名言の知恵 人生の知恵』より)
ほんと水は変幻自在、優しくもあり、激しく人間に襲いかかることもある。
水五訓は、戦国の武将「黒田如水」が、唱えたとも言われ、中国の王陽明の訓示から伝わったは別として、深い意味のある言葉だな、と思います。
水は人を生かし、作物を育て、船を浮かばせる。
私もそろそろ、活活と動くのではなく、ゆったりと水の如く、時間の流れに合わせて生きる生き方にしなければ、と思うこのごろです。
「知行合一」を導き出した陽明学の祖・王陽明の教えに「水五訓」があります。
作家の谷沢永一著編『名言の知恵 人生の知恵』から、
(以下、本より転載)
水五訓ーー王陽明(伝)
一、常に己の進路を求めて止まざるは水也。
一、自ら活動して他を動かすは水也。
一、障碍に遭い激してその勢力を百倍するは水也。
一、自ら潔うして他の汚濁を洗い 然も清濁併せ容るるは水也。
一、洋々として太海充し 発しては雨となり雲と変じ 凍っては玲朧(れいろう)たる氷雪と化す 而もその性を失わざるは水也。
*王陽明:16世紀の中国の学者・政治家。
(以上、『名言の知恵 人生の知恵』より)
ほんと水は変幻自在、優しくもあり、激しく人間に襲いかかることもある。
水五訓は、戦国の武将「黒田如水」が、唱えたとも言われ、中国の王陽明の訓示から伝わったは別として、深い意味のある言葉だな、と思います。
水は人を生かし、作物を育て、船を浮かばせる。
私もそろそろ、活活と動くのではなく、ゆったりと水の如く、時間の流れに合わせて生きる生き方にしなければ、と思うこのごろです。
2021年02月18日
不遇、逆境というものは自己を練る最もいい場所。〜安岡正篤〜
不遇、逆境というものは自己を練る最もいい場所。〜安岡正篤〜
久しぶりに『安岡正篤一日一言』を開いた。2月24日の訓示は、
(以下、本より転載)
いかなる所へ行っても、牢獄へ入れられても、島流しにあっても、悠然としてふだんと変わらないようになるのには、よほど自分を作らなければならない。そういう意味では、不遇・逆境というものは自己を練る最もいい場所だ。
(以上、『安岡正篤一日一言』より)
この文を読みながら、獄中に居ても、意気揚々と過ごした吉田松陰を思い浮かべた。
>1854年、吉田松陰は海外密航を企てたという大罪で、長州藩の士分を収容する牢獄“野山獄”に送られる。ひとたび入れば生きては出られない地獄の牢獄として知られる野山獄は、長い幽閉生活で希望を失った者ばかりで溢れていた。しかし、常に前向きな松陰の姿に、彼らも少しずつ心を動かされていく。唯一の女囚・高須久も、短歌の集いなどを通じ、松陰との仲を深めていく(中略)
等々、獄中生活をどう過ごすのか?
当時は、政治犯もいたので、藩主の意向に添えない者も牢獄に入った。吉田松陰は、獄中を学びの場に変えて行った。さらに吉田松陰は、出られないと言われた「野山獄」から出て、松下村塾を開く。その塾に通った若者たちが、後の幕末維新の争乱の中で、活躍していく。
東京市長などを務めた後藤新平は、世に何を残すかと問われ、「それは人を残すこと」と答えている。
小泉内閣が取り上げた長岡藩の「米百俵」の精神も、人間教育の大切さを教えています。
安岡正篤先哲の「不遇・逆境こそが鍛錬の場」には、人生60年が過ぎて、これまで乗り越えて来た、様々な出来事を思い出すに、ようやってきたなと振り返ります。
まだまだ、試練に遭うとは思いますが、臆せず、慌てず、目の前のことを処理していくしかありません。
久しぶりに『安岡正篤一日一言』を開いた。2月24日の訓示は、
(以下、本より転載)
いかなる所へ行っても、牢獄へ入れられても、島流しにあっても、悠然としてふだんと変わらないようになるのには、よほど自分を作らなければならない。そういう意味では、不遇・逆境というものは自己を練る最もいい場所だ。
(以上、『安岡正篤一日一言』より)
この文を読みながら、獄中に居ても、意気揚々と過ごした吉田松陰を思い浮かべた。
>1854年、吉田松陰は海外密航を企てたという大罪で、長州藩の士分を収容する牢獄“野山獄”に送られる。ひとたび入れば生きては出られない地獄の牢獄として知られる野山獄は、長い幽閉生活で希望を失った者ばかりで溢れていた。しかし、常に前向きな松陰の姿に、彼らも少しずつ心を動かされていく。唯一の女囚・高須久も、短歌の集いなどを通じ、松陰との仲を深めていく(中略)
等々、獄中生活をどう過ごすのか?
当時は、政治犯もいたので、藩主の意向に添えない者も牢獄に入った。吉田松陰は、獄中を学びの場に変えて行った。さらに吉田松陰は、出られないと言われた「野山獄」から出て、松下村塾を開く。その塾に通った若者たちが、後の幕末維新の争乱の中で、活躍していく。
東京市長などを務めた後藤新平は、世に何を残すかと問われ、「それは人を残すこと」と答えている。
小泉内閣が取り上げた長岡藩の「米百俵」の精神も、人間教育の大切さを教えています。
安岡正篤先哲の「不遇・逆境こそが鍛錬の場」には、人生60年が過ぎて、これまで乗り越えて来た、様々な出来事を思い出すに、ようやってきたなと振り返ります。
まだまだ、試練に遭うとは思いますが、臆せず、慌てず、目の前のことを処理していくしかありません。