2008年02月18日

愛敬の心を持つこと(その1)

「開運のすすめ」愛敬の心を持つこと(その1)

愛敬の心を持つは、どういうことをいうのであろうか。

 おれは、たとえば、君子と小人との表面的な形について観察して見ると、節義とか廉恥とか文章とか政治といったものは、君子もよくするし、小人でもできないことはないから、常にまじり合って区別がつき難い。

 ただ一つ、心がどのようであるかという点になると、善と悪が掛け離れてしまい、はっきりと見分けられるし、黒と白と相反するように別れてしまう。それ故に、孟子は、「君子が外の人と相違するわけは、君子は本心を存しているからである」と言っている。君子のしっかりと持っている本心とは、一つに仁、一つに礼である。その仁と礼とは一体いかなるものであろうか。

 仁者は人を愛するものであり、礼あるものは人を敬するものである。ゆえに、仁礼とは、常に人を愛し、人を尊敬する心を堅持していることをいうのである。


(解説)
 正しいと思われる物の理屈を百篇も説いてみせるよりも、どのような態度や行動を取るかといった一度の義理をつくす方がまさっている、ということわざで、「道理百篇、義理一篇」と言ったりする。

 また、あの人の言うことは正しい理に適しているが、どうも納得できないし支持できない。ということを多く体験する。どのような正しい理屈であろうとも、究極のところで納得や支持することは、頭にかかわることでなく、「心に存す」、すなわち心にかかわることであるからである。

 君子と言われるりっぱな人間も、そうでない小人も、表面的に見分けがつきにくいものである。この両者を区別し、人を愛し、尊敬する心を、如何なる場合でも難く持っているか否かで、君子と小人の差が出てくるからである。




Posted by ノグチ(noguchi) at 02:19│Comments(0)
 
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