2019年11月11日
>みんなの心が私の心。天皇陛下のパレードを見て、老子の言葉を思い起こしていました。〜天皇陛下のパレードに思う〜
<『老子』49章>みんなの心が私の心。天皇陛下のパレードを見て、老子の言葉を思い起こしていました。〜天皇陛下のパレードに思う〜
おはようございます。昨日は、サッカー大会の疲れからか早くに休みました。深夜の雨音に目が覚め、うとうとと横になっていて、早目の朝読書は何にするかと、手にしたのはドリアン助川著『バカボンのパパと読む「老子」』で、開いたページが冒頭言葉でした。
「みんなの心が私の心」
老子第四十九章
【原文】
聖人無常心、以百姓心為心、善者吾善之、不善者亦善之、徳善。信者吾信之、不信者亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙焉、爲天下渾渾。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。
【直訳】
聖人は常に心無く、百姓(ひゃくせい)の心を以(も)って心と為(な)す。善なる者は吾れこれを善しとし、不善なる者も吾れまたこれを善しとして、善を徳(う)。信なる者は吾れこれを信じ、不信なる者も吾れまたこれを信じて、信を徳(う)。聖人の天下に在るや、歙歙(きゅうきゅう)たり、天下の為(おさ)むるや渾々(こんこん)たり。百姓は皆その耳目を注ぐも、聖人は皆これを孩(がい)にす。
歙歙(きゅうきゅう):控えめ。こだわらない。
孩(がい):無邪気な赤ちゃん
【意訳】
聖人には決まった心というものがなく、人の心を自分の心とする。善ある者を自分はよしとするが、善でない者もまた自分はよしとする。その徳そのものが善である。信義のある者を自分は信じるが、信義のない者もまた自分は信じる。その徳そのものが信義である。
聖人が世に立つときは自らの心をひそめ、控えめになるのであって、人々のために柔軟な胸のうちを持つ。人々はみな、聖人に注目する。聖人は人々を赤子のように無邪気にする。
【バカボンのパパ風に読むと】
どえらい人には自分がこうでなければというこだわった心というものがなく、みんなの心を自分の心とするのだ。あの人良さそうだなという人の心はもちろんよしとするが、あんまり良くないなという人の心もよしとしてしまうのだ。その器の大きさそのものが善なのだ。信じられる人はもちろん信じられるが、信じられない人も信じらのだ。その器の大きさそのものが信じられるということなのだ。
みんなはみんな、その人のことが気になって仕方なくなるのだ。どえらい人はみんなをハジメちゃんのようによく笑う赤ちゃんにしてしまうのだ。これでいいのだ。
(以上、『バカボンのパパと読む『老子」』より転載)
>どえらい人はみんなをハジメちゃんのようによく笑う赤ちゃんにしてしまうのだ。これでいいのだ。
この本を読みながら、昨日のパレードを思い出していました。沿道に集まった人々だけでなく、多分、多くの国民がテレビで見たことと想像します。天皇陛下とは、老子のいう聖人なのだと思いました。国民の象徴、そういう人の存在を日本社会が保つことを支持しているのだと思います。
元東京熊本県人会の会長を務められたジャーナリストの故内田健三氏に尋ねた人がいました。
「先生、天皇制は日本に必要ですか?」と、
すると内田氏は、「まだ、とうぶんは日本には(天皇制は)必要だなぁ」と答えておられた。
昨日の天皇陛下のパレードを見たのち、Facebookに取り上げるコメントを読み、そして日本の政治機構を担当する人々の世に見えない(見せない)仕業との違いから、善なる者を受け入れて、不善なる者も受け入れる度量の大きさ、正にそれを国民は天皇に求めているのではないか、世には善と不善が混ざりあっている。その全てを飲み込み、善なる方向へ導くことが、象徴としての役割のように思います。
朝から禅問答になりましたが、昨日の天皇陛下のパレードは、日本の国民の心を一瞬ではあるが、太陽の光のように、明るくしたように思いました。ただ、警護の物々しさに驚くとともに、それを気にもとめずに、にこやかに手を振るお二人の大きさを沿道の人たちは体感したのではと思いました。
しかし、晴天の下、明るい笑顔は、これからの日本の未来を明るくしたやうな気がします。
おはようございます。昨日は、サッカー大会の疲れからか早くに休みました。深夜の雨音に目が覚め、うとうとと横になっていて、早目の朝読書は何にするかと、手にしたのはドリアン助川著『バカボンのパパと読む「老子」』で、開いたページが冒頭言葉でした。
「みんなの心が私の心」
老子第四十九章
【原文】
聖人無常心、以百姓心為心、善者吾善之、不善者亦善之、徳善。信者吾信之、不信者亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙焉、爲天下渾渾。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。
【直訳】
聖人は常に心無く、百姓(ひゃくせい)の心を以(も)って心と為(な)す。善なる者は吾れこれを善しとし、不善なる者も吾れまたこれを善しとして、善を徳(う)。信なる者は吾れこれを信じ、不信なる者も吾れまたこれを信じて、信を徳(う)。聖人の天下に在るや、歙歙(きゅうきゅう)たり、天下の為(おさ)むるや渾々(こんこん)たり。百姓は皆その耳目を注ぐも、聖人は皆これを孩(がい)にす。
歙歙(きゅうきゅう):控えめ。こだわらない。
孩(がい):無邪気な赤ちゃん
【意訳】
聖人には決まった心というものがなく、人の心を自分の心とする。善ある者を自分はよしとするが、善でない者もまた自分はよしとする。その徳そのものが善である。信義のある者を自分は信じるが、信義のない者もまた自分は信じる。その徳そのものが信義である。
聖人が世に立つときは自らの心をひそめ、控えめになるのであって、人々のために柔軟な胸のうちを持つ。人々はみな、聖人に注目する。聖人は人々を赤子のように無邪気にする。
【バカボンのパパ風に読むと】
どえらい人には自分がこうでなければというこだわった心というものがなく、みんなの心を自分の心とするのだ。あの人良さそうだなという人の心はもちろんよしとするが、あんまり良くないなという人の心もよしとしてしまうのだ。その器の大きさそのものが善なのだ。信じられる人はもちろん信じられるが、信じられない人も信じらのだ。その器の大きさそのものが信じられるということなのだ。
みんなはみんな、その人のことが気になって仕方なくなるのだ。どえらい人はみんなをハジメちゃんのようによく笑う赤ちゃんにしてしまうのだ。これでいいのだ。
(以上、『バカボンのパパと読む『老子」』より転載)
>どえらい人はみんなをハジメちゃんのようによく笑う赤ちゃんにしてしまうのだ。これでいいのだ。
この本を読みながら、昨日のパレードを思い出していました。沿道に集まった人々だけでなく、多分、多くの国民がテレビで見たことと想像します。天皇陛下とは、老子のいう聖人なのだと思いました。国民の象徴、そういう人の存在を日本社会が保つことを支持しているのだと思います。
元東京熊本県人会の会長を務められたジャーナリストの故内田健三氏に尋ねた人がいました。
「先生、天皇制は日本に必要ですか?」と、
すると内田氏は、「まだ、とうぶんは日本には(天皇制は)必要だなぁ」と答えておられた。
昨日の天皇陛下のパレードを見たのち、Facebookに取り上げるコメントを読み、そして日本の政治機構を担当する人々の世に見えない(見せない)仕業との違いから、善なる者を受け入れて、不善なる者も受け入れる度量の大きさ、正にそれを国民は天皇に求めているのではないか、世には善と不善が混ざりあっている。その全てを飲み込み、善なる方向へ導くことが、象徴としての役割のように思います。
朝から禅問答になりましたが、昨日の天皇陛下のパレードは、日本の国民の心を一瞬ではあるが、太陽の光のように、明るくしたように思いました。ただ、警護の物々しさに驚くとともに、それを気にもとめずに、にこやかに手を振るお二人の大きさを沿道の人たちは体感したのではと思いました。
しかし、晴天の下、明るい笑顔は、これからの日本の未来を明るくしたやうな気がします。