2007年09月10日
西郷隆盛の魅力を考える「人望」
西郷隆盛の魅力を考える「人望」
本屋で見つけた「人望の研究」なる本を、時間が空いたときに少しづつ読んでいるが、なかなか読み、自分の行動を考えるのに、参考になる部分が多々ある。中身は、中国古典の人生訓を現代風に解説しているだけなのだが、古文を読むにはなかなか時間も調査も要るので、寸暇の休憩に読むには、現代語の方が入りやすいと思います。
相手の気持ちを考慮して、望むこといかにキャッチし、タイムリーに対応し、周りの方全てが心地良い気持ちを持ちながら、事が進むことを考え続ける姿勢が大事と説いています。なんだ、当たりまえのことではないかと思いますが、人間、その場になれば感情やそれまでの人間関係等々で、無心(私心を捨てる)に成れないが常と思います。
西郷隆盛の言葉「敬天愛人」は、「天を敬い、(全ての)人を愛する心」を現していますが、はたして西郷隆盛のように、毎日そんな気持ちを持ち続けることは、むずかしものと思います。
孔子の教えで最も重きを置いていた「仁」のこころは、相手を思いやる優しさであり、哀れみが基本にあります。井戸に落ちそうな子供を見た瞬間に、「どうにかしないと」と湧き出でる心もその一つです。困窮する人に思いを馳せる気持ちこそが、孔子の教育理念ではと私は思っています。西郷隆盛は、儒教の教えを大きく受けていると言われていますが、さらに人生の苦難中で、到達した自分を持っていたのだと思います。
人望=魅力、磁力は、日々の暮らしの中の言動に注意し、遭遇する苦難に向かい、前向きな心と優しさを、常に持ち続けることだと思います。
周りの出来事を「ゆるす(恕す)」懐の深さを育てて行きたいと思っています。
*参考資料:山崎武也著「人望力」
本屋で見つけた「人望の研究」なる本を、時間が空いたときに少しづつ読んでいるが、なかなか読み、自分の行動を考えるのに、参考になる部分が多々ある。中身は、中国古典の人生訓を現代風に解説しているだけなのだが、古文を読むにはなかなか時間も調査も要るので、寸暇の休憩に読むには、現代語の方が入りやすいと思います。
相手の気持ちを考慮して、望むこといかにキャッチし、タイムリーに対応し、周りの方全てが心地良い気持ちを持ちながら、事が進むことを考え続ける姿勢が大事と説いています。なんだ、当たりまえのことではないかと思いますが、人間、その場になれば感情やそれまでの人間関係等々で、無心(私心を捨てる)に成れないが常と思います。
西郷隆盛の言葉「敬天愛人」は、「天を敬い、(全ての)人を愛する心」を現していますが、はたして西郷隆盛のように、毎日そんな気持ちを持ち続けることは、むずかしものと思います。
孔子の教えで最も重きを置いていた「仁」のこころは、相手を思いやる優しさであり、哀れみが基本にあります。井戸に落ちそうな子供を見た瞬間に、「どうにかしないと」と湧き出でる心もその一つです。困窮する人に思いを馳せる気持ちこそが、孔子の教育理念ではと私は思っています。西郷隆盛は、儒教の教えを大きく受けていると言われていますが、さらに人生の苦難中で、到達した自分を持っていたのだと思います。
人望=魅力、磁力は、日々の暮らしの中の言動に注意し、遭遇する苦難に向かい、前向きな心と優しさを、常に持ち続けることだと思います。
周りの出来事を「ゆるす(恕す)」懐の深さを育てて行きたいと思っています。
*参考資料:山崎武也著「人望力」
Posted by ノグチ(noguchi) at 12:58│Comments(2)
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お由羅騒動(おゆらそうどう)とは幕末に薩摩藩(鹿児島藩)で起こった御家騒動。別名「高崎崩れ」「嘉永朋党事件」。島津斉彬の藩主襲封を願う家臣によって起こされた。
お由羅騒動 【篤姫(あつひめ)大河ドラマ】at 2007年09月28日 21:58
お由羅騒動(おゆらそうどう)とは幕末に薩摩藩(鹿児島藩)で起こった御家騒動。別名「高崎崩れ」「嘉永朋党事件」。島津斉彬の藩主襲封を願う家臣によって起こされた。
風林火山【篤姫(あつひめ)大河ドラマ】at 2007年09月28日 22:01
この記事へのコメント
鹿児島で6年を過したので、彼の人気の絶大さはわかる。大久保も力量からいえば、彼に匹敵するが、人気においてはかなわない。なぜだろう。
安岡正篤は、陽明学を奉じ、西郷隆盛を最高位に置いた。少々気になったのは陽明自身をはじめ、陽明学を実践した人の末路は寂しい。
安岡正篤は、陽明学を奉じ、西郷隆盛を最高位に置いた。少々気になったのは陽明自身をはじめ、陽明学を実践した人の末路は寂しい。
Posted by Ichiro at 2009年02月23日 22:26
>陽明学を実践した人の末路は寂しい。
明治維新の時、北陸戦争で闘死した、「越後の青き龍」と言われた、河井継之助もまた陽明学を志した一人ですが、辛酸な結末で、最後終えました。
しかし、河井継之助の師である、山田方谷は、維新後の明治政府からの政治参画要請を断り、岡山の陽明学の学校「閑谷学校」の校長として最後まで教壇に立ちました。
この「閑谷学校」を創った、池田光正公に招かれた熊沢蕃山は、幕府に目をつけられたことで、藩から離れ、山紫水明、文学、芸術を楽しみながら、一生を終えます。
この熊沢蕃山を敬慕した、幕末の政治思想家の横井小楠は、明治2年に刺客に襲われ命を落とします。
人の一生、どう生きるか考える機会になりました。
書き込みありがとうございました。
明治維新の時、北陸戦争で闘死した、「越後の青き龍」と言われた、河井継之助もまた陽明学を志した一人ですが、辛酸な結末で、最後終えました。
しかし、河井継之助の師である、山田方谷は、維新後の明治政府からの政治参画要請を断り、岡山の陽明学の学校「閑谷学校」の校長として最後まで教壇に立ちました。
この「閑谷学校」を創った、池田光正公に招かれた熊沢蕃山は、幕府に目をつけられたことで、藩から離れ、山紫水明、文学、芸術を楽しみながら、一生を終えます。
この熊沢蕃山を敬慕した、幕末の政治思想家の横井小楠は、明治2年に刺客に襲われ命を落とします。
人の一生、どう生きるか考える機会になりました。
書き込みありがとうございました。
Posted by ノグチ(noguchi)
at 2009年02月28日 12:14
