2007年10月18日
知識の学問と知恵の学問 (安岡正篤「一日一言」より)
知識の学問と知恵の学問 (安岡正篤「一日一言」より)
みなさん、おはようございます。いつも私の愚問の日記にコメントいただき感謝いたします。
今朝も、安岡正篤「一日一言」を紐解きながら、ここ数日のメッセージ交換の中で、年を取ることは意味があるのだと感じています。
(本文)
・知恵の学問
知識の学問と知恵の学問では非常に違うのであって、地しくの学問は、われわれの理解力・記憶力・判断力・推進力など、つまり悟性の働きによって誰にもひと通りできるものだ。子供もできる、大人もできる、善人もできる、悪人もできる。程度の差こそあれ、誰でもできる。その意味では、機械的な能力である。
しかしそういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、われわれの性命や、人間としての体験の中からにじみ出てくるもっと直感的な人格的な学問を知恵の学問と言う。
だから知識の学問より知恵の学問になるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのである。
それを深めると、普通で容易に得られない徳に根ざした、徳の表れである徳恵(「とくけい」あるいは「とくえ」と読む)という学問になる。これが聖賢の学である。
(感想)
日常の暮らしの中で、人と関わり合うのは日常ですが、その色々な場面で人それぞれの性格、経験から関心したり、あれっ?と思うことがあります。知識は、色々訓練の中で熟達して行きますが、人と人のコミュニュケーション、リーダーシップに関しては、なかなかマニュアル通りに行かないことを経験します。
心の問題「ソフト・パワー」の領域がこの点だと思います。仕組みやマニュアルの知識「ハード・パワー」は完璧にこなしても、人との心は、簡単に集約されないことが多々あります。
人は、何か惹きつける魅力や興味で「この人に協力しよう」「この人に付いて行こう」と思うのではと、青木保氏の著書に出てくる「ソフト・パワー」を、私は自分勝手に解釈しています。
それぞれが経験を積み、経験から出る言葉には、重みと優しさがあると感じます。年長の存在価値は、その辺りにあると思っています。
現代はIT社会と言われますが、それは知識(技)の部分で、人と人の係わり合いは、古(いにしえ)の時代からあります。儒教の基本といえる「尭」「舜」の時代のことを、論語では今も基本して、人との関わり合いを学んでいます。大学・中庸を読むと、ドキッとすることが多々あるのは、日常の生活は2500年の時を越えて、そう変っていないと気付かされます。
現代の知識集約型中心の社会でなく、経験と知恵を中心とする、人と人の生業に視点を置いた社会を重要視して行く事が必要な気がします。
(終わりに)
今日も人の言葉を使っての日記ですが、先人たちも偉人の言葉を学び、考え、語り、社会を良くしようと頑張って来たように思います。私も、日々無駄に時間を使うのでなく、先人たちの知恵(経書を)学びながら、これかも生きて行こう思います。お付き合い頂ければ幸いです。
中年の学徒 ノグチ
みなさん、おはようございます。いつも私の愚問の日記にコメントいただき感謝いたします。
今朝も、安岡正篤「一日一言」を紐解きながら、ここ数日のメッセージ交換の中で、年を取ることは意味があるのだと感じています。
(本文)
・知恵の学問
知識の学問と知恵の学問では非常に違うのであって、地しくの学問は、われわれの理解力・記憶力・判断力・推進力など、つまり悟性の働きによって誰にもひと通りできるものだ。子供もできる、大人もできる、善人もできる、悪人もできる。程度の差こそあれ、誰でもできる。その意味では、機械的な能力である。
しかしそういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、われわれの性命や、人間としての体験の中からにじみ出てくるもっと直感的な人格的な学問を知恵の学問と言う。
だから知識の学問より知恵の学問になるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのである。
それを深めると、普通で容易に得られない徳に根ざした、徳の表れである徳恵(「とくけい」あるいは「とくえ」と読む)という学問になる。これが聖賢の学である。
(感想)
日常の暮らしの中で、人と関わり合うのは日常ですが、その色々な場面で人それぞれの性格、経験から関心したり、あれっ?と思うことがあります。知識は、色々訓練の中で熟達して行きますが、人と人のコミュニュケーション、リーダーシップに関しては、なかなかマニュアル通りに行かないことを経験します。
心の問題「ソフト・パワー」の領域がこの点だと思います。仕組みやマニュアルの知識「ハード・パワー」は完璧にこなしても、人との心は、簡単に集約されないことが多々あります。
人は、何か惹きつける魅力や興味で「この人に協力しよう」「この人に付いて行こう」と思うのではと、青木保氏の著書に出てくる「ソフト・パワー」を、私は自分勝手に解釈しています。
それぞれが経験を積み、経験から出る言葉には、重みと優しさがあると感じます。年長の存在価値は、その辺りにあると思っています。
現代はIT社会と言われますが、それは知識(技)の部分で、人と人の係わり合いは、古(いにしえ)の時代からあります。儒教の基本といえる「尭」「舜」の時代のことを、論語では今も基本して、人との関わり合いを学んでいます。大学・中庸を読むと、ドキッとすることが多々あるのは、日常の生活は2500年の時を越えて、そう変っていないと気付かされます。
現代の知識集約型中心の社会でなく、経験と知恵を中心とする、人と人の生業に視点を置いた社会を重要視して行く事が必要な気がします。
(終わりに)
今日も人の言葉を使っての日記ですが、先人たちも偉人の言葉を学び、考え、語り、社会を良くしようと頑張って来たように思います。私も、日々無駄に時間を使うのでなく、先人たちの知恵(経書を)学びながら、これかも生きて行こう思います。お付き合い頂ければ幸いです。
中年の学徒 ノグチ
Posted by ノグチ(noguchi) at 01:20│Comments(0)