2007年11月20日

人物の見分け方、自己鍛錬の妙薬、活学のすすめ

人物の見分け方、自己鍛錬の妙薬、活学のすすめ

 日々人と出会い語るのですが、色々な人をが居るなと感じます。そんな時に、自分も含め人生を考えるとき、先人の訓示はありがたいなと思います。
 ここ数日の出来事から、思い出した言葉で、とても尊敬する安岡正篤先生の言葉を書きました。ご意見、感想等頂ければ幸いです。


・人物の見分け方

「大事・難事には担当を看る。逆境・順境には襟度を看る。臨喜・臨怒には涵養を看る。群行・群止には識見を看る」

 これは呂新吾の呻吟語(しんぎんご)に出てくる言葉であるが、大事難事が起ったときは、人の担当力を看るだけでなく、自分自身がどう対処し得るかと内省する意味がある。
 逆境順境に襟度を看るは、襟は心であり、度は度量である。
 臨喜臨怒に涵養を看るは、喜びや悲しみに際して恬淡(てんたん)としているか、どんなに怒るかとか思っていると悠揚(ゆうよう)としているなど、平生深く養っておればそれが出ることだ。
 群行群止とは、大勢の人間と一緒の行動をしているとき、その人の見識が現れること


・自己鍛錬の妙薬

 人間はどんなことが起っても、自由自在に対応できる適応力を不断に養わなければならない。それには絶えず自力を養成しなければならないぬ。薬の力とか、医者の力とか、他物に依存して居っては段々自力が弱くなります。自然の体力、生命力が弱くなってしまいます。どんな代用品も自然の生命力に勝るものはありません。
 身体ばかりではない。整理ばかりでない。精神、心理という意味に於ける性理、命理もすべてそうです。
 そんなことから、病弱とか、愚鈍であるとか、貧乏でるとか、多忙であるとかいうことは、逆に自分自身を鍛錬する非常な妙薬、否、妙薬以上のものであります。


・活学のすすめ

 学問というものは現実から遊離したものは駄目であって、どうしても自分の身に付けて、足が地を離れぬように、その学問、その思想をもって自分の性格を作り、これを自分の環境に及ぼしてゆくという実践性がなければ活学ではない。われわれは今後本当に人間を作り、家庭を作り、社会を作る上に役に立つ生命のある思想学問を興し、これを政治経済百般に適用してゆかねければならない。いわゆる実学、活学をやらなければならない。


*参考資料:安岡正篤著「一日一言」



Posted by ノグチ(noguchi) at 19:40│Comments(0)
 
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