2021年09月11日
<世を生きる哲学>長生きの道は一歩ゆずることから。〜『菜根譚』前集No.13〜
<世を生きる哲学>長生きの道は一歩ゆずることから。〜『菜根譚』前集No.13〜
年に一度は読み返す『菜根譚』には、現代にも通じる人間学(哲学)が、たくさん含まれている。
『菜根譚』前集No.13の解説から、
【訳文】
小道のせまい場所では、自分から一歩たちどまりよけて、相手に行かせてやり、またおいしい食べ物は、自分の分を三分ぐらい減らして相手に譲ってやる。このような心がけこそ、この世を生きていく上で、一つの極めて安らかで楽しい方法である。
(以上、『菜根譚』の解説より)
俺が、俺が、の我利我利の視点しかない人は、外目も内も、心が荒んでいる。〜中村天風〜
また、『菜根譚』前集No.17より、
【訳文】
人を遇する時には、完全なることを求めないで、九分ぐらいに止めて、あと一分は寛大にして見過ごすようにするのがよいことである。
(以上、本より)
司馬遼太郎講演集の一文に、事業の完成期(8〜9割)近づくと、最後に目立ちたい人たちが寄ってくる。
そんな時は、最後まで関わらず、目立ちたい人たちに任せで、その様子を高みの見物をしていると、後々、誰がやってきたか、いずれ伝わるものです。と、司馬遼太郎さんが語っています。
>一歩たちどまりよけて、相手に行かせてやる
>完全なることを求めないで、九分ぐらいに止めて、あと一分は寛大にして見過ごす
ただ注意、引くだけではなく、事業遂行までの地道な活動を知らせる努力があってこそ、高みの見物ができる。
社会活動には、人の生きる「哲学」があると思う。
年に一度は読み返す『菜根譚』には、現代にも通じる人間学(哲学)が、たくさん含まれている。
『菜根譚』前集No.13の解説から、
【訳文】
小道のせまい場所では、自分から一歩たちどまりよけて、相手に行かせてやり、またおいしい食べ物は、自分の分を三分ぐらい減らして相手に譲ってやる。このような心がけこそ、この世を生きていく上で、一つの極めて安らかで楽しい方法である。
(以上、『菜根譚』の解説より)
俺が、俺が、の我利我利の視点しかない人は、外目も内も、心が荒んでいる。〜中村天風〜
また、『菜根譚』前集No.17より、
【訳文】
人を遇する時には、完全なることを求めないで、九分ぐらいに止めて、あと一分は寛大にして見過ごすようにするのがよいことである。
(以上、本より)
司馬遼太郎講演集の一文に、事業の完成期(8〜9割)近づくと、最後に目立ちたい人たちが寄ってくる。
そんな時は、最後まで関わらず、目立ちたい人たちに任せで、その様子を高みの見物をしていると、後々、誰がやってきたか、いずれ伝わるものです。と、司馬遼太郎さんが語っています。
>一歩たちどまりよけて、相手に行かせてやる
>完全なることを求めないで、九分ぐらいに止めて、あと一分は寛大にして見過ごす
ただ注意、引くだけではなく、事業遂行までの地道な活動を知らせる努力があってこそ、高みの見物ができる。
社会活動には、人の生きる「哲学」があると思う。
<自らを鍛える>艱難辛苦は、成長するチャンスと思い立ち向かうこと。〜菜根譚〜
平々凡々。過ちなく過ごすが、真の功名。他人に怨まれないが、真の恩恵。〜菜根譚〜
生き延びてきた人生>有名著名が人生の王道ではない、平凡な生き方の中に道がそなわる。
<古い教え>知識や教養は、周りへは光らかしてはならない。〜菜根譚〜
<人生は誰に会うか?>相手を選んで接しているか?
<今が、大事>死んだ後には、妻も子ども財産も、何の役に立たない。〜菜根譚〜
平々凡々。過ちなく過ごすが、真の功名。他人に怨まれないが、真の恩恵。〜菜根譚〜
生き延びてきた人生>有名著名が人生の王道ではない、平凡な生き方の中に道がそなわる。
<古い教え>知識や教養は、周りへは光らかしてはならない。〜菜根譚〜
<人生は誰に会うか?>相手を選んで接しているか?
<今が、大事>死んだ後には、妻も子ども財産も、何の役に立たない。〜菜根譚〜