2022年02月21日

<凡人か、凡人でないか>朝から自問自答した、中村天風氏の言葉「凡人、真人、至人」。さて私自身はどうか?

<凡人か、凡人でないか>朝から自問自答した、中村天風氏の言葉「凡人、真人、至人」。さて私自身はどうか?


スポーツの祭典「冬季オリンピック」が終わり、ちょっとさみしいですが、振り返ると普通の日常が戻って来た、と思います。

日常、普通、平常、・・・

平凡な日とは?、平凡な人とは?

先月に引っ張り出した中村天風氏の本に、以下の言葉がありました。

(以下、本より)

普通の人間は、
「あの人大嫌いよ、あんなもの嫌いよ」
「どうも、あの人、好かない」
と言っているだろう。そういうものを余計もっているほど凡人というんだぜ。

 自分に親しみを自分の方から感じせしめる人が自分の周囲に多いか。本当に心から親しみを感じる人がきわめて少なく、どいつもこいつもみんな憎らしい奴ばかりではないか。それによって、凡人か、凡人でないか、本当の淑女か、偽者かということがわかる。
(以上、本より転載)

私は、人が多いときはほとんど語らない。異業種交流会とかセミナーとかを主催するときは、語るべきことは語ります。場に合わせて、なるべく短く語るようにしています。

長く生きて来ると、人が集まっていると、我先にと自分のことを語り続ける人がいる。周りからすると、"何を言いたいのか?"語り過ぎて内容が不明になることが多い。

人が集まるときは、いかに参加した人のことを聞き出すことに注力を注ぐことだと、異業種交流会を主催して来て感じることです。 

中村天風氏は、真の人間(真人)して生きる生き方について、

(以下、本より)

真人(しんじん)になれば、たとえ自分の心に瞬間、憎らしいとか嫌だと感じるものがあっても、そういう人をけっして退けない。進んでそういう者と和やかに親しみを続けていく、(中略)

清濁併せ呑んで、その人を排斥しない。
(以上、本より抜粋)

人間関係は、何故か不思議と、いつかのグループ化して行く。人間の性(さが)と言えば、終いになるが、そこを和やかつながるのが真人なのかもしれない。

さらに中村天風氏は、真人よりさらに進化した人間のことにも触れています。

(以下、本より)

 さらに、真人から進んだ至人(しじん)になると、仲良くして、与えないばかりでなく、常にこれをよいほうへと導くことに努力する。
(以上、本より)

いわゆる、人を善道(ぜんどう)するのが、至人なのだと思います。自らの私欲を抑え、対峙する人の状況に合わせ導く行いのできる人。

今朝も禅問答になってしまいましたが、オリンピックで活躍した人、上手くゆかなかった人、それぞれに学ぶことがたくさんありました。世界を目指すスポーツ選手のプレーと発言、少年少女たちへの刺激は計り知れないものがあると思います。

凡人、真人、至人

さて私自身はどうか?

朝から自問自答した、中村天風氏の言葉でした。


同じカテゴリー(リーダーの名言)の記事画像
<己に克つための極意>「意なし、必なし、固なし、我なし」〜敬天愛人〜
同じカテゴリー(リーダーの名言)の記事
 「人間から生きがいを奪うほど残酷なことはない。人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない」〜神谷美恵子〜 (2024-10-18 23:01)
 「人は誰もが、大河の一滴である」〜五木寛之著『死の教科書ー心が晴れる48のヒントー』〜 (2024-10-16 10:02)
 本来"リベラリズム"で大事なのが人間の心なのです。〜宇沢弘文著『人間の経済学』〜 (2024-09-30 19:50)
 <人の時のアセス>愚直に生きた夏目漱石、その思考は『老子』を参考にしていた。〜半藤一利〜 (2024-09-25 06:26)
 「イマダモッケイ(木鶏)ニオヨバズ」〜双葉山(昭和の大横綱)〜 (2024-08-07 05:49)
 >足跡の連なりが人生となる。「人生は、手ぶらで生きて、手ぶらで死ぬのがいい」〜升野俊明語録〜 (2024-04-04 05:35)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。