2008年04月21日

開運に通じる改過三綱領「改禍とは」(「開運のすすめ」) 

開運に通じる改過三綱領「改禍とは」(「開運のすすめ」) 


開運に通じる改過三綱領

(前 書)

 吉凶、すなわち福(=開運)と禍(=不運)とは、まず心中に兆して、だんだんに身体に表れてくる。であるから。真実の心の暑い人ほど常に福を得て、薄い人ほど常に禍に近づくことになる。卑近の心の厚い人ほど常に福を得て、薄い人ほど常に禍に近づくことになる。卑近なことにとらわれる俗眼にはなかなか分かりにくいものである。
 改過とは過ちを改めることであるが、過ちも又、心よっておこり心によって改まるものである。過ちは禍(=不運)に通じ、改過は福(=開運)に通じる。改過の要点として、『陰隲録』では三つの綱目を挙げている。その説くところは、現代にあっても傾聴にあたし、学ぶところが多いといえまいか。


<その一> 改禍とは

(現代語訳)

 春秋時代の太夫(重臣)たちが、人の言動を観察し、予測してその過失や災禍を説いているのをみると、すべて納得することができる。そのことは「左氏伝」や「国語」に書かれているものを読んでみるとよく理解できる。

 およそ幸・不幸のきざしは、始め心の中に芽ざして、それから表面に現れてくるものである。真実の心の厚い者ほど、常に福が得られ、薄い者ほど、常に災禍に近づくことになる。凡俗の眼は膜が厚くなっていてこの状態が見えにくく、禍福は定まらないから、俗眼にはこれまた予測することはできないものがある。ところが至誠は天意に合するものでらるから、福がすぐに来ようとするときは、その善なるものを見て、あらかじめこれを知ることができる。

禍の来ようとするときもその不善なるものを視て、必ず前もってこれを知ることができる。 春秋の時代は、古の聖人を知ることが、それほど遠くない時代であるから、その太夫たちの徳も高くその言っていることが多くあたるのはもっともなことである。


(読 訳)
 災難や過失をまねく過ちを改めることはやはり、善事を積むことと同じく、開運に通じることである。では、過ちを見定めるにはどのようにしたらよいのであろうか。

 中国の春秋時代の重臣たちは、人の言動を観察して、その人の将来に起る災難や過失を予測したという。禍福吉凶、すなわち幸不幸のきざしは、はじめ心の中に芽ざして、それから言動となって表面にあらわれてくるからである。

 しっかりとした見識が身についていない我々であるが、春秋の重臣たちに倣(なら)い、行い正しく心を平静にして、自他ともの言動をよく観察するように努めたいものである。


(感 想)
 何か失敗をした時、周りに迷惑をかけた時のことを振り返ると、やはり自分にその責任の多くがあるし、人との関係は相互関係(作用反作用)になっているので、どんな出来事もにも互いの責任があるように感じます。

 交通事故を考えると、信号停車への追突は、別として、予防運転に気を付けてやっていると、接触せずに、「ハッ」とするところで終わる事が多々あります。予測の大事さを感じる瞬間ですが、これは自分の言動そのものの現われでないかと思うことがあります。

 禍福も同様に、言動を慎重に考え、予測し、行動起していると日常の災難は、案外避けることができるのかもしれません。他人に迷惑をかけないように、自戒し、生きて行きたいと思います。


*参考資料:開運のすすめ~『陰隲録』に学ぶ~(永渕道彦訳)


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