2008年05月05日
畏心を発する(開運のすすめ「開運に通じる改禍三綱領」)
畏心を発する(開運のすすめ「開運に通じる改禍三綱領」)
毎週月曜日の永淵道彦先生の「開運のすすめ」の紹介です。
(現代語訳)
第二は、懼(おそ)れつつしむ心を起こすべきである
天地の神は、天上からごらんになっており、鬼神を欺くこともできない。自分の過ちがどのように微細で人にわからぬようであっても、鬼神はちゃんと照覧しておられる。そして過ちの甚だしいものには、いろいろの災難をくだし、軽い場合は現在の福を減損する。してみるとわれらは、どうしてこれを懼れないわけにいこうか、懼れざるを得ない。
そればかりではない。平生何もしていない場合でも、心の底まで指し示すようにはっきりと知られている。それ故自分では、おおい隠すことが甚だ緻密であるから人にわかるまいと思い、また表面をかざってうまくやったと思っても、神は心の中までことごとく明らかにあらわしてしまい、ついに欺きとおすことはできないし、人に見破られてしまい、一文にもならない。それ故どうしてひきしまる思いをしないでいられようか。
また、そればかりではない。一息でも呼吸のある間はやはり悔い改めるべきである。古人で一生の間悪事ばかりしていたが、死ぬときなってすっかり後悔し、善心を起こして、ついに終わりを善くすることができたものがある。このことは、猛烈に励む一念があれば、百年の悪事も洗い落とすことができるということをいっている。
これを例えてみれば、千年も日の照らず暗く奥深い谷も、わずかに一点の燈火に照らされれば、千年の暗やみも除いてしまうようなものである。
だから、過ちは古いとか新しいとかを云うことなくただ改めることを貴ぶのである。しかし、この俗世間は無常であり、この肉体ははかないものである。呼吸が絶えたならば、もはや悔い改めようとしてもどうしようもなくなってしまう。この世にあっては、千年以上もこの悪名をうけ、もし孝行の子、慈愛深い孫があったとしても悪名は洗い落とすことはできない。また死後の世界では罪の報いの堕ち沈んで、その責め苦に堪えられないことになる。それをどうして懼れないでいられようか。
(読 釈)
第二は、おそれ慎む心を起こすべきである。どんなにその過ちが小さくて人にわからなくても、必ずどこかで暴露されるものである。自分は要領がよく、表面を飾ってうまくやっているつもりでも、自分自身も人も、だまし通せるものではない。
生きている限り反省し、善の心を起こし過ごすべきである。俗世間は無常であり、命には限りがある。人は棺を覆って後に価値が定まるといわれるように、死んだ後には悪名も洗い流すことができないものである。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言うではないか。
(感 想)
「一日三省す」の言葉ではないですが、常に自分の行動を謙虚に反省し、嘘偽りがないか、周りに悪影響がないか、心のわだかまりもふくめ、監視することが必要と思います。
思いで突き進んでいる時は、なかなか自分が見えなくなります。そんな時こそ「忙中に閑あり」の心のゆとりを思い起こし、多忙な中にこそ、反省する気持ちを思い起こすことが重要と思います。
きびしい環境に耐え、多忙に心を忘れず、閑なときも悪事を思わず、激せず、騒がず、競わず、驕らずに、常に自分を忘れないようにしたいものです。
その根底にあるものは、「志」ではないかと思います。
<コミュ>
・開運のすすめ~『陰隲録』に学ぶ~(永渕道彦訳)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3058451
■<遺失物>400万円届けず着服、53歳男逮捕 福岡(毎日新聞05月04日)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=478668&media_id=2
■吉兆・食べ残し使い回し、20年以上前から…関係者証言(読売新聞05月03日)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=478642&media_id=20
毎週月曜日の永淵道彦先生の「開運のすすめ」の紹介です。
(現代語訳)
第二は、懼(おそ)れつつしむ心を起こすべきである
天地の神は、天上からごらんになっており、鬼神を欺くこともできない。自分の過ちがどのように微細で人にわからぬようであっても、鬼神はちゃんと照覧しておられる。そして過ちの甚だしいものには、いろいろの災難をくだし、軽い場合は現在の福を減損する。してみるとわれらは、どうしてこれを懼れないわけにいこうか、懼れざるを得ない。
そればかりではない。平生何もしていない場合でも、心の底まで指し示すようにはっきりと知られている。それ故自分では、おおい隠すことが甚だ緻密であるから人にわかるまいと思い、また表面をかざってうまくやったと思っても、神は心の中までことごとく明らかにあらわしてしまい、ついに欺きとおすことはできないし、人に見破られてしまい、一文にもならない。それ故どうしてひきしまる思いをしないでいられようか。
また、そればかりではない。一息でも呼吸のある間はやはり悔い改めるべきである。古人で一生の間悪事ばかりしていたが、死ぬときなってすっかり後悔し、善心を起こして、ついに終わりを善くすることができたものがある。このことは、猛烈に励む一念があれば、百年の悪事も洗い落とすことができるということをいっている。
これを例えてみれば、千年も日の照らず暗く奥深い谷も、わずかに一点の燈火に照らされれば、千年の暗やみも除いてしまうようなものである。
だから、過ちは古いとか新しいとかを云うことなくただ改めることを貴ぶのである。しかし、この俗世間は無常であり、この肉体ははかないものである。呼吸が絶えたならば、もはや悔い改めようとしてもどうしようもなくなってしまう。この世にあっては、千年以上もこの悪名をうけ、もし孝行の子、慈愛深い孫があったとしても悪名は洗い落とすことはできない。また死後の世界では罪の報いの堕ち沈んで、その責め苦に堪えられないことになる。それをどうして懼れないでいられようか。
(読 釈)
第二は、おそれ慎む心を起こすべきである。どんなにその過ちが小さくて人にわからなくても、必ずどこかで暴露されるものである。自分は要領がよく、表面を飾ってうまくやっているつもりでも、自分自身も人も、だまし通せるものではない。
生きている限り反省し、善の心を起こし過ごすべきである。俗世間は無常であり、命には限りがある。人は棺を覆って後に価値が定まるといわれるように、死んだ後には悪名も洗い流すことができないものである。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言うではないか。
(感 想)
「一日三省す」の言葉ではないですが、常に自分の行動を謙虚に反省し、嘘偽りがないか、周りに悪影響がないか、心のわだかまりもふくめ、監視することが必要と思います。
思いで突き進んでいる時は、なかなか自分が見えなくなります。そんな時こそ「忙中に閑あり」の心のゆとりを思い起こし、多忙な中にこそ、反省する気持ちを思い起こすことが重要と思います。
きびしい環境に耐え、多忙に心を忘れず、閑なときも悪事を思わず、激せず、騒がず、競わず、驕らずに、常に自分を忘れないようにしたいものです。
その根底にあるものは、「志」ではないかと思います。
<コミュ>
・開運のすすめ~『陰隲録』に学ぶ~(永渕道彦訳)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3058451
■<遺失物>400万円届けず着服、53歳男逮捕 福岡(毎日新聞05月04日)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=478668&media_id=2
■吉兆・食べ残し使い回し、20年以上前から…関係者証言(読売新聞05月03日)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=478642&media_id=20
名著『陰隲録』から、聖王「舜」の行動からリーダーシップとは
(子への訓示)子供の天啓に望みをかける~名著「陰隲録」を読む
福は己がつくる(「開運のすすめ」より)*長文です
(開運は謙虚にあり)張畏岩の事例 その3「開運のすすめ」
「運命の好転法」張畏岩の事例 その2(開運は謙虚にあり)
「開運のすすめ」張畏岩の事例 その1(開運は謙虚にあり)
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Posted by ノグチ(noguchi) at 07:44│Comments(0)
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