2010年07月11日
(自信とは?)哲学、人生観、価値観の深さから
(自信とは?)哲学、人生観、価値観の深さから
「彼は、自信家だ!」
と、聞くことがあります。自信家とは、どんな人かと考えると、説明ができません。
自信、果たしてどこからくるのでしょうか。
最近開く一冊の本に、自信についての説明がありました。
(本文)
真の自信とは、理屈を知っているかどうかで決まるようなものではありません。その人のもっている哲学、人生観、価値観といったものが根拠になって出てくる自信が、本当の意味の自信なのです。それは、形而上学的な世界、倫理、哲学などにおける普遍的な価値基準に基づく自信ということができると思います。
そういう自信をもって行動する者に対して、人は敬意を表したり、尊敬するというような反応を示すものです。逆に、普遍的な価値基準のない人の自信は、傲慢さが鼻につくだけのものでしかありません。(中略)
(以上、「哲学への回帰」)
ごもっとも、という言葉しかでませんが、なんか説明が難しく、他の人に説明が難しい気がします。要は、学問を深め、多様な人生経験から出てくる言葉は、心を打つと思うし、そういう言葉に感動をした経験が何度もあります。
インド独立の指導者ガンジーの言葉に「my life is my message」(私の人生そのものが、私のメッセージです)があります。苦難を越えた言葉に、人々は感動しガンジーの言葉に導かれたのだと思います。人生経験、多様な学問の積み重ね(自信)のない言葉は、人々の心を揺り動かせない。
そこに、自信=尊敬の関係を見出すことができるのかもしれません。冒頭の「自信家」と呼ばれるような人は、本当の自信(=尊敬)ではなく、少々傲慢な自信と、人は見ているのかもしれません。
以前読んだ本に、「絹衣(=自信)を来てはいるが、上に無彩の麻衣を羽織り、ときどき、ちらりと内に来た絹衣が見えるくらいが良い」と、自信(実力)は、ときどき外へ出す程度が良いと先人が解説していました。
実力(=敬慕)される方は、語らずとも、その存在が聞こえてくるのは、地道な努力と出会いの中で磨かれていくのかもしれません。
多弁よりも、訥弁がよいのかもしれない。(しゃべりすぎにご注意を!)
*参考資料:梅原猛・稲盛和夫著「哲学への回帰」
「彼は、自信家だ!」
と、聞くことがあります。自信家とは、どんな人かと考えると、説明ができません。
自信、果たしてどこからくるのでしょうか。
最近開く一冊の本に、自信についての説明がありました。
(本文)
真の自信とは、理屈を知っているかどうかで決まるようなものではありません。その人のもっている哲学、人生観、価値観といったものが根拠になって出てくる自信が、本当の意味の自信なのです。それは、形而上学的な世界、倫理、哲学などにおける普遍的な価値基準に基づく自信ということができると思います。
そういう自信をもって行動する者に対して、人は敬意を表したり、尊敬するというような反応を示すものです。逆に、普遍的な価値基準のない人の自信は、傲慢さが鼻につくだけのものでしかありません。(中略)
(以上、「哲学への回帰」)
ごもっとも、という言葉しかでませんが、なんか説明が難しく、他の人に説明が難しい気がします。要は、学問を深め、多様な人生経験から出てくる言葉は、心を打つと思うし、そういう言葉に感動をした経験が何度もあります。
インド独立の指導者ガンジーの言葉に「my life is my message」(私の人生そのものが、私のメッセージです)があります。苦難を越えた言葉に、人々は感動しガンジーの言葉に導かれたのだと思います。人生経験、多様な学問の積み重ね(自信)のない言葉は、人々の心を揺り動かせない。
そこに、自信=尊敬の関係を見出すことができるのかもしれません。冒頭の「自信家」と呼ばれるような人は、本当の自信(=尊敬)ではなく、少々傲慢な自信と、人は見ているのかもしれません。
以前読んだ本に、「絹衣(=自信)を来てはいるが、上に無彩の麻衣を羽織り、ときどき、ちらりと内に来た絹衣が見えるくらいが良い」と、自信(実力)は、ときどき外へ出す程度が良いと先人が解説していました。
実力(=敬慕)される方は、語らずとも、その存在が聞こえてくるのは、地道な努力と出会いの中で磨かれていくのかもしれません。
多弁よりも、訥弁がよいのかもしれない。(しゃべりすぎにご注意を!)
*参考資料:梅原猛・稲盛和夫著「哲学への回帰」