2024年07月10日

真の自分になること、自分の信念・学問・信仰に徹する。〜古賀穀堂〜

真の自分になること、自分の信念・学問・信仰に徹する。〜古賀穀堂〜



朝目覚めたら外は雨音でした。今日もウォーキング(週休3日制)は、3日続けてのお休みです。

さて、未明の時間つぶしは、枕元の本、今朝は久しぶりに『安岡正篤一日一言』の一年ぶりに読む、7月9・10日の訓示です。タイトルは、

(以下、本より抜粋)

古賀穀堂(こくどう)

幕末佐賀藩の名君・鍋島閑叟(かんそう)の師。

古賀穀堂の自警(じけい)に、
「自分は開闢(かいびゃく)以来の第一人になる」
の語がある。ーー

 大変な天狗(自信家)と思われるかもしれません。然し違うのです。それは第一人を「だい」一人と読むからです。第は「ただ」と読むのです。
 古賀穀堂の意地悪なユーモアと申せましょう。現在でも世界に三十億(当時)の人間がおりますが、自分は二人とありません。これが人間存在の冥利で、個性というものでもあります。
(以上、7月9日の訓示より)

自分とは、"唯我独尊"の唯一無二の存在、とお釈迦様も教えています。

私は、ただ(第)一人の存在。

そこで、古賀穀堂は、次のことを目指していました。

(以下、『安岡正篤一日一言』より)

俺は何になるのだ

何をもって存在するのだ

というと、これは真の自分になること、自分の信念・学問・信仰に徹することです。これは大きな見識であります。世間では自分を見失ってしまって、他人のまね(真似)ばかりするものだから、ろくな自己ができません。
(以上、7月10日の訓示より)

さて「自己」とは何か?

また、何のために生まれてきたのか?

そんなことを、誰でも考えた経験を持つと思います。

私は、現在66歳、昨日の映画「お就活、再春」の"人生100年時代"からすると人生の3/2になるのですが、一般てきな寿命なら3/4が過ぎた年齢です。

果たして「自己」を自ら自覚できているか、と問われた時にハッキリ答えられるか、確認できていません。

ただ、これは譲れない、というものはあります。それは、「自己」か、「拘り」か、はたまた「我利」か、は不明ですが、そんな問いを、自らにする年齢になってきました。

古賀穀堂の、

>真の自分になること、自分の信念・学問・信仰に徹する

その域に至るには、まだまだ、学問(実践)が必要と、朝から『安岡正篤一日一言』を読み、反省しました。

今日からまた、梅雨模様の雨が降る予報、大降りにならないことを願いつつ、猛暑は一休みなので、雨間に活動したいと思います。


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