2011年02月20日

上杉鷹山の師細井平州私塾「嚶鳴(おうめい)館」と「父母の心」

上杉鷹山の師細井平州の私塾「嚶鳴(おうめい)館」と「父母の心」

 2月16日~18日まで、四国の愛媛県へ政務調査に行った。地産地消、演劇による地位文化活性化、ボートレースの場外船券売り場(ボートピア)、精神的を病(うつ病、引きこもり等)の改善を目指すNPO法人、松山市議と松前町議との意見交換、日本食研㈱本社の工場見学、等々、盛りだくさんの調査と意見交換を交わして来ました。
 愛媛は、江戸期に「伊予」地域と呼ぶでいました。江戸期に、大きな功績を残した伊予西条藩主から紀伊の徳川家の藩主になった、徳川治貞公の師である細井平州を思い出した。細井平州は、江戸後期の名君であり、経済の天才的な君の上杉鷹山の師であります。細井平州の人柄を表わした言葉に次の一節があります。

(本文)
「細井先生の講釈は、難しいことをわれわれの頭に合わせて易しく教えてくださる」
「世の学者には、易しいことをわざわざ難しくいって自分の利口ぶりを語る人が多いが、細井先生は違う。細井先生こそ、本当に頭がいいのだ。易しいことをわざわざ難しく語る学者は、本当は馬鹿なのだ」
 細井平州は、江戸の街頭に立って辻講釈を始めた。場所は人が沢山通る両国橋を選んだ。
 (以上、童門冬二著「上杉鷹山と細井平州」)

 上記の講演をする中で、少しづつ塾生も集まった来ました。その平州の人柄を表わすエピーソードがあります。童門冬二著の「上杉鷹山と細井平州」から抜粋します。

(本文)
 細井平州の師の中西淡淵(たんえん)が死んだ。まだ四十四才若さだった。平州は悲しんだ。師を失った多くの弟子たちは、「引き続き先生のところで学ばせて欲しい」と大挙して細井平州のところへやって来た。平州は受け入れた。このため、たちまち門人が増え、塾が狭くなった。そこで門人たちも心配して大増築を始めた。塾は、宝暦三年(1753年)に改築された。平州はこの塾に名前をつけた。
「嚶鳴(おうめい)館」
である。嚶鳴というのは、雌雄(メスオス)の鳥がオウオウと鳴き交わすことをいう。しかしこれは何も腹が減って餌を求めるわけでも、また愛を囁(ささ)いているわけではない。これが転じて、
「朋有が互いに切磋琢磨して、学問に励む」
という意味を持つようになった。
 (以上、童門冬二著「上杉鷹山と細井平州」)

嚶鳴(おうめい)館の生い立ちをご理解いただけましたでしょうか。


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Posted by ノグチ(noguchi) at 08:43│Comments(0)偉人
 
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