2013年08月08日

吉田松陰のロシア密航計画を支持する熊本藩士たちとの熱い交流があった。

吉田松陰のロシア密航計画を支持する熊本藩士たちとの熱い交流があった。

今日見つけた本『江戸の旅人吉田松陰』で、吉田松陰は幕末に一番日本中を歩いた旅人だったと、著者の海原徹氏が書いている。

その中で、幕末動乱前夜(1853年)に、吉田松陰がロシア艦隊に乗ろうと密航計画を企て、江戸を出たのが1853年9月10日、色々な所や人を巡りながら熊本に着いたのが10月19日夜。それからの7日間は、次々に熊本藩士と合う。

10月20日宮部鼎蔵と共に、横井小楠宅訪問、相撲町の私塾「小楠堂」を始めていた。小楠同士には、多くの実学志向の藩士が集っていた。その藩士たちが、
10月22日熊本藩士7人を訪問。
10月23日熊本藩士9人が次々来訪。
10月24日熊本藩士5人が訪ねる。
10月25日熊本藩士6人が訪ねる。
10月26日熊本の尾島(小島)港から、未明に出発した。

ところが、ロシア艦隊は松陰が長崎に着く4日前に出港していた。密航計画は頓挫した。失意に落ちて、帰路に着くが、密航を熱烈に後押しした熊本藩士に会うべく、11月5日再度、尾島港から熊本入った(帰って来た)。
11月6日に松陰の宿に、熊本藩士11人が宿を訪ねる。同日、宮部鼎蔵と熊本藩の家老有吉市兵衛を訪問。熊本藩士2人が同席。夜には、数名の来訪者があった。
11月7日熊本を出発し、柳川藩経由で、萩へ戻った。
(以上、『江戸の旅人吉田松陰』海原徹著による)

吉田松陰、宮部鼎蔵、横井小楠は、28才、38才、48才?と約10才違いに当たる。吉田松陰は、宮部鼎蔵を兄貴分として「宮部先生」と語ったいた。横井小楠は、さらに兄貴格に当たる。年代的には、佐久間象山世代になる。色々な面で影響を与えたのだと思います。

今日、下関市立図書館で、高杉晋作関連の資料を調べていて、高杉は、佐久間象山と横井小楠を「海国派」として一目をおいていた。今回の調査の主目的の一つ、禁門の変の大将格の久坂玄瑞の九州遊学の足跡調査ですが、長州を語るには、吉田松陰なしにはありえないとつくづく思いました。

維新動乱の引き金となった小競り合いの最大の事件「池田屋騒動」に深く長州と肥後(熊本)が関係していたのは、吉田松陰と宮部鼎蔵の交友が起因といて、熊本藩士と吉田松陰は深くつながっていたと思います。

明日一日、もっと史実を集めるために、山口県立図書館の郷土資料から、長州から見た幕末の熊本について、調べてみたいと思います。


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Posted by ノグチ(noguchi) at 22:50│Comments(0)偉人
 
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