2008年12月07日

<呻吟語> 己を修め人を修める ~第一等の人物とは~

<呻吟語> 己を修め人を修める ~第一等の人物とは~

 久々に明末の儒者、呂新吾の教示「呻吟語(しんぎんご)」を、安岡正篤先生が解説した本を開いて見た。日々に暮らしで、常に頭に置きなさいと行く度々なく言われる「身を修める」と言う言葉ですが、その解説を読んでみた。

(本文)
 学問というものは常にその時代と自己というものに切実に徹してやらなければ、それこそ空論というか、単なる知識・雑識になってしまいます。(中略)

 安岡先生は、後漢書の「楊震」の故事を例に挙げ、深夜、賄賂を携え新長官である楊震のもとを訪ねた王密は、「夜のこと誰も見ていません」に対して、楊震は「天知る、神知る、我知る、子(あなた)知る、何をか知るものなしといわん」と答え、王密は自分を恥て帰った故事を例にして、

(本文)
 人間にとって最も大事なものは敬恥の心でありまして、その敬恥の心が悪い法に働くと忌憚(きたん)の心になる。(中略)

 忌憚の心を失っていない間は、まだ人に知られては困るという良心が死に切っておらぬからである。

「天徳は只是れの無我、王道は只是れ箇の愛人」 

意味は、無我こそ至上の徳。王道も、人間に徹して人間を愛することより外にない。

「学者の大病痛は只是れ器度の小なるなり」」

(本文)
 学者の一番の弱点は器度(人物のスケール)が小さいことである。この場合の学者はいわゆる学者ではなく、凡そ学問をするものという意味です。今日は学校教育制度が発達しておるからみな学者でありますが、その学者の器量が小さい。これが学者の最大の弱点だというのであります。(中略)
 そういう点からいいますと、どうも学者や技術者といった人達は自分だけの世界に安じて、書物を読んだり理論に携わったりあるいは専門の技術に打ち込んで、生きた人間を相手にせずにすみますから、とかく独りよがりになる。(中略)

 私も建築士という技術者の端くれですが、厳しい指摘を受けた気分です。同じ分野(穴のむじな)ではなく、多様な分野の人々と交流し、議論し、考え、さらに交流を深め、多様化することこそ、専門の学問を深めることにつながるように思います。
 異業種交流会を開催するようになって11年、世には色々な仕事と、人材がいかに多いことを知り、日々の出会いの中での気付きが、一番の私の刺激なっています。

「己を修め人を修める」と域には、まだまだ遠い私ですが、遠いからこそ面白いと思い、時間を見つけては、故事を読み、個性ある人を求め、語って行きたいと思います。

*参考資料:安岡正篤編著「呻吟語を読む」~第5講「己を修め人を修める」~

<関連コミュ>
・呻吟語(しんぎんご)を読む
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3045354

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 22:37Comments(0)呻吟語(しんぎんご)