2008年08月14日
(お盆休暇)安岡正篤氏の教示、出会うこと、気付くこと、
(お盆休暇)安岡正篤氏の教示、出会うこと、気付くこと、
今日は、朝ゆっくりでした。新聞、ネット等々に目を通し、仲間の日記もいくつか読ませてもらいました。
以前に書いた、AEDの投書が地元紙に掲載され、みんな同じことを考えているのだと確認できました。
「気づく」とは、何かと思うことがあります。「これって、変よね。私だけ思うのだろうか? これ言うと笑われるかな?・・」と、色々考えたりします。
日々に仕事やまちづくりで、先輩の話を聞く中で、リーダー格に二通りの人物像が浮びます。とても物知りで、経験豊富で、若い人がやろうとすると、以前の前例たくさん取り上げ、知識豊富に語られる。これには、行動がを躊躇してしまいます。
片方は、若者の意向を聞き、「とにかくやらせる人」と、これは意欲が湧いてきます。
どちらの指導者が正かは、その場面でないと判断できませんが、賛否あるところと思います。
今朝開いた、安岡正篤氏の「一日一言」に次に2つの教示がありました。
「迂儒」
いくら本を読んで、知識を豊富に持っておっても一つも実際の役立たんという学者がある。こういうのを迂儒(うじゅ)という。いろいろ知ってはいるが、意外に役に立たん、生きた解決にピタリとしないというのを迂と言う。だから儒者でも、物知りではあるけれども活きた学問にならんというのを迂儒という。学説に「迂説」という言葉はこれからくるわけです。
しからば、見識をどう養うか、それは、やはり人生の体験を積んで、人生の中である深い理法、道というものがわからないと見識になってこない。
(感 想)
見識とは、人との関わりから経験し、身体にしみこんだ体験、考え、反省も含め、行動から学び会得したものと、本で学んだ知識が合体して、閃くことではないかと思います。
「小才の愚」
子曰わく、群居終日、言、義に及ばず、好んで小恵を行う、難いかな。〔論語〕
忙しい忙しいと言いながら大勢集まって、あちらで碁を打っておるかと思うと、こちらではつまらぬことをべらべらしゃべっている。折角の会合だからと行ったのに、いつまでたってもそれらしい話が出てこない。
そうして小知恵のまわるようなことでお茶をにごしている。これらは日常始終経験するところです。
つまらぬことには小才がきくが肝腎なことはさっぱり役に立たぬ人間は困ったものたというのです。
(感 想)
昼間にゆっくり食事をすることが最近ないのですが、月に一度か、二度ゆっくり昼食をとり、この人と言う方と語りたいものですが、なかなか実現できません。それをやっているが、色々な大人の集まる倶楽部なのでしょうか。
時間を上手く使い、人と語り、見識を深めている人たちの時間の使い方を学びたいと思います。でも、ただ目的もなく、日時を決め、集まるだけでは、安岡先生に言葉ではないですが、「つまらぬことには小才がきくが肝腎なことはさっぱり役に立たぬ人間」の集まりのなってしまいます。
大切なことは、「思いを持ち、会いたい、語りたい」という人に会うことを、日々実践していく事だと思います。良き出会いは、更に良き出会いをつなげると言います。
短い一生の間に、ただ集まるのが目的でなく、目標を持って人と会って行かなければ、真の交流は生まれないように思います。
話があっち、こっちに飛びました。お盆休みの夕方、ふと思ったことを書きました。今から、祖先の方々を思い、親父と酒でも飲もうと思っています。
皆様にとって、夏の休暇が有意義なものである事を願っています。
今日は、朝ゆっくりでした。新聞、ネット等々に目を通し、仲間の日記もいくつか読ませてもらいました。
以前に書いた、AEDの投書が地元紙に掲載され、みんな同じことを考えているのだと確認できました。
「気づく」とは、何かと思うことがあります。「これって、変よね。私だけ思うのだろうか? これ言うと笑われるかな?・・」と、色々考えたりします。
日々に仕事やまちづくりで、先輩の話を聞く中で、リーダー格に二通りの人物像が浮びます。とても物知りで、経験豊富で、若い人がやろうとすると、以前の前例たくさん取り上げ、知識豊富に語られる。これには、行動がを躊躇してしまいます。
片方は、若者の意向を聞き、「とにかくやらせる人」と、これは意欲が湧いてきます。
どちらの指導者が正かは、その場面でないと判断できませんが、賛否あるところと思います。
今朝開いた、安岡正篤氏の「一日一言」に次に2つの教示がありました。
「迂儒」
いくら本を読んで、知識を豊富に持っておっても一つも実際の役立たんという学者がある。こういうのを迂儒(うじゅ)という。いろいろ知ってはいるが、意外に役に立たん、生きた解決にピタリとしないというのを迂と言う。だから儒者でも、物知りではあるけれども活きた学問にならんというのを迂儒という。学説に「迂説」という言葉はこれからくるわけです。
しからば、見識をどう養うか、それは、やはり人生の体験を積んで、人生の中である深い理法、道というものがわからないと見識になってこない。
(感 想)
見識とは、人との関わりから経験し、身体にしみこんだ体験、考え、反省も含め、行動から学び会得したものと、本で学んだ知識が合体して、閃くことではないかと思います。
「小才の愚」
子曰わく、群居終日、言、義に及ばず、好んで小恵を行う、難いかな。〔論語〕
忙しい忙しいと言いながら大勢集まって、あちらで碁を打っておるかと思うと、こちらではつまらぬことをべらべらしゃべっている。折角の会合だからと行ったのに、いつまでたってもそれらしい話が出てこない。
そうして小知恵のまわるようなことでお茶をにごしている。これらは日常始終経験するところです。
つまらぬことには小才がきくが肝腎なことはさっぱり役に立たぬ人間は困ったものたというのです。
(感 想)
昼間にゆっくり食事をすることが最近ないのですが、月に一度か、二度ゆっくり昼食をとり、この人と言う方と語りたいものですが、なかなか実現できません。それをやっているが、色々な大人の集まる倶楽部なのでしょうか。
時間を上手く使い、人と語り、見識を深めている人たちの時間の使い方を学びたいと思います。でも、ただ目的もなく、日時を決め、集まるだけでは、安岡先生に言葉ではないですが、「つまらぬことには小才がきくが肝腎なことはさっぱり役に立たぬ人間」の集まりのなってしまいます。
大切なことは、「思いを持ち、会いたい、語りたい」という人に会うことを、日々実践していく事だと思います。良き出会いは、更に良き出会いをつなげると言います。
短い一生の間に、ただ集まるのが目的でなく、目標を持って人と会って行かなければ、真の交流は生まれないように思います。
話があっち、こっちに飛びました。お盆休みの夕方、ふと思ったことを書きました。今から、祖先の方々を思い、親父と酒でも飲もうと思っています。
皆様にとって、夏の休暇が有意義なものである事を願っています。
「イマダモッケイ(木鶏)ニオヨバズ」〜双葉山(昭和の大横綱)〜
真の自分になること、自分の信念・学問・信仰に徹する。〜古賀穀堂〜
<目覚めの学び>知識の学問→知恵の学問→徳惠の学問〜安岡正篤〜
<死中有活・忙中有楽>『六中観』〜安岡正篤〜
<安岡正篤語録>人間の質「五悪」「五善」とは?。この人間分析は、人の本質は長く付き合わないと分からない。
<感情と内臓との関係>多想心労、多怒肝労、多思脾労、多悲肺労、多憂腎労。〜賢(じん)を養う〜
真の自分になること、自分の信念・学問・信仰に徹する。〜古賀穀堂〜
<目覚めの学び>知識の学問→知恵の学問→徳惠の学問〜安岡正篤〜
<死中有活・忙中有楽>『六中観』〜安岡正篤〜
<安岡正篤語録>人間の質「五悪」「五善」とは?。この人間分析は、人の本質は長く付き合わないと分からない。
<感情と内臓との関係>多想心労、多怒肝労、多思脾労、多悲肺労、多憂腎労。〜賢(じん)を養う〜
Posted by ノグチ(noguchi) at 18:03│Comments(0)
│安岡正篤語録