2019年06月27日

<登校指導から思>朝の挨拶は自分にする意味もある。〜安岡正篤〜

<登校指導から思>朝の挨拶は自分にする意味もある。〜安岡正篤〜

九州南部を熱帯低気圧が通過するようで、10分ほど前から急に雨脚が強まってきました。

朝の小学校の校門前での交通指導をしていて思うのは、挨拶の「おはようございます」と声をかけも、返して来る子ども、何も語らない子ども、眠そうな子ども、色々いますが、5年も校門前に立っていると、その家庭の朝の状況を垣間見れる子どもたちの会話や挨拶の様子から、わかるようになってきました。

登校班にも違いがあり、グループのリーダーや上級生で、だいぶ違います。

しかし、挨拶をしない子が多い印象は、どこの学校でも言われることだと思います。

そもそも挨拶とは何か?

日常の儀礼的な大人の挨拶も、「あいつは、すれ違っても挨拶もしない」と怒られるのが市町村議員への態度(評価?)なのですが、普段に、年に一度すれ違う人のような人にも挨拶を日常するか、と問われると、それは不自然ではと思います。

毎日、校門前に居て、車の誘導をしながら、横断歩道を渡らせる緑のおじさんの私ではありますが、6年近くいるので、小学校1年から6年間毎朝顔を合わせています。それでも、言葉が出ないのは、家庭内に課題があるのだと思います。

昭和の東洋哲学者の安岡正篤先生は、「挨拶は相手にするものだが、自らにも挨拶をしている意識を持たなければいけない」と、挨拶を第三者的に見ることを言われています。

大人になると自分のことを「なんで俺って失敗ばかりするのだろう、ドジだな」と自問自答することがあると思います。自らを第三者的に見る(反省)ことができます。だから、朝起きて家族に「おはよう」と言いつつ自分にも挨拶をしなければいけない、と安岡正篤先生は教えられています。

マラソン選手の有森裕子さんが「自分を褒めたい、と思います」と語った言葉は有名ですが、毎日来る朝に、周りに朝の挨拶をすることは親が自らの行動で示し子を導くのですが、自らも導くことになっていることも忘れてはならない。

一人暮らしの人は、鏡を見て、自らに挨拶をすることを実践してみてください。気持ちも、シャキッとなると思います。

安岡正篤先生の教え
「朝の挨拶は自分にする意味もある」
を朝の子どもたちの挨拶から思い出し、私自身も反省しました。


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Posted by ノグチ(noguchi) at 09:15│Comments(0)安岡正篤語録
 
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