2009年01月20日

「道は近きに在り」・・親を見れば・・

「道は近きに在り」・・親を見れば・・

 だいぶ前に、一度ブログに書いた記憶がありますが、受験シーズンになると、ふと思い出す安岡正篤先生の本にあった、ある教師が集めたという狂歌集「親を見りゃボクの将来しれたもの」の幾つかの短歌です。

(本文転載)

人なみに叱られてみたい説きもある
 俺の親父は俺がこわいか    (中二男)

家庭とは父きびしくて母やさし
 それでも好いのだうちは違う  (中二男)

心からすがりつこうとする時に
 いつも父さん逃げてしまうよ  (中一女)

あんな人選んじゃだめよあなたはネ
 体験がにじむ母の口癖     (中一女)

哀しさは勤めに出てのたまにする
 母の話題のそのくだらなさ   (中三男)

みんなだめ顔がとげとげでいらいらで
 他人みたいなわが家一族    (中三女)

どれも痛いほど現実をつかんでおる。道は近きに在りの痛切な一例ではないか。
(以上、安岡正篤「一日一言」より)

 親子の「孝」、夫婦の「別」という論語の教えがありますが、

「孝」:親の行動を見て育ち、自然に尊敬の心を持つ
「別」:夫婦は、家庭に中で、男と女のそれぞれの役割を知り、家庭を導く

そんな意味だったように思います。男女を問わず、家庭の中で「父性」、「母性」の役割とは何か、常に考え子どもたちを導く言動が必要なように思います。

 何度も書くのですが、四書の中の『礼記』に西晋の官僚で学者の謝安は、あまり子どもたちに勉強を教えないことに妻が、
「あなたは、初めから児を教えなさるところを見たことがありませんね」
と嫌みを言う。ところが謝安は、
「私は常に児に教えろ。これある哉(か)」

 子どもは本能的に、母に愛・慈愛、父に権威・尊敬・敬慕の念を持っていて、三歳にもなると、その心ははっきり出てくると言われます。
「溺愛」と言うことを聞きますが、やはり人は、「敬」と「恥」が必要で、その教えは親たちが、日々の行動で示して行くことが一番早道のように思います。

「人の道は、近きに在り」、安岡先生の教示は、なるほどと思うところがたくさんあります。「あの親の子か」言われないように、また「子を見りゃ、親が分かる」とも言われないように、家庭の中での行動も大事と思います。 

*参考資料:安岡正篤「一日一言」より


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Posted by ノグチ(noguchi) at 07:06│Comments(0)安岡正篤語録
 
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