2011年02月13日

「予見と言動」遠慮なければ必ず近憂あり(論語)

「予見と言動」遠慮なければ必ず近憂あり(論語)

 守屋洋著「中国古典一日一話」に冒頭の一節があった。この遠慮は、気がねするの意味ではない。文字通り遠きを慮(おもんぱか)るの意味である。だから、「遠いところまで見通して対策を考えておかないと、近いところで足をすくわれることになる」と訳せるだろう。
 なんだそんなことかと思われるかもしれない。見識のある人でなくても、ちょっと気のきいた人間なら、誰でも口にしそうな言葉である。だが、一見、平凡であるが、いざ実行するのは、なかなかむずかしい。中国古典の『左伝』にも、
「君子は遠慮あり、小人は近きに従う」
 とある。とにかく目先のことにとらわれて、うろうろ、おたおたしがちなのが、われわれの常だ。
 では、遠慮とはどの程度の先を目指しているのか。少なくとも十年ぐらいは射程に入れておかなければならないと思う。このくらいの「遠慮」があれば、かなりの程度の「近憂」を避けることができるにちがいない。

 中国の賢人たちの言葉には、なるほどと納得させられる。人間、日々の生活で自分を省みるゆとりがない時が多々ある、でも、自分の言動を常に後世に人が検証したらどうか、言動を謙虚に見つめる時間が必要だと思います。
 どんなに密室の議論でも、必ず周りにもれて行く。更に、口伝えに自分や家族、友人に伝わるものです。「勇気、判断、尊厳、献身」がアメリカ大統領の50年後、100年後の評価を基準だそうだが、今生きるリーダーたちは、常にその4つの尺度を考えて、言動を行う必要があると思う。

 そういう自分も、果たして日々の言動がどう評価されるか、社会変化と地域の状況に中でどんな役割をしているか、やはり後世の人にしか正しい評価はされないのかもしれません。
 マハトマ・ガンジーの言葉に、「my life is my message(私の人生そのものが、メッセージです)」とある。日々の言動の積み重ね(生活)が、最大のメッセージなのなかもしれません。

*参考資料:守屋洋著「中国古典一日一話」
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 01:50Comments(0)孔子の教え