2011年02月17日
【人間力】 歌手・加藤登紀子さんの原点「命の手応え」
【人間力】 歌手・加藤登紀子さんの原点「命の手応え」
致知出版社の「人間力メルマガ」から、転載します。今日の文に、私の意見は書きません。
(以下、転載)
「命の手応え」
加藤淑子(元レストラン「スンガリー」経営者)
……………………………………………………………………………………
わが郷愁の街、ハルビン──。
戦前、「極東のパリ」と呼ばれたこの美しい街と
そこに暮らした人々への愛と尊敬の気持ちは、
帰国から六十年の歳月が過ぎたいまも消えることはありません。
二十歳から十一年間を過ごした現地での生活を、
孫や曾孫たちのために残しておきたいと筆を執ったのは、
九十歳を迎えた昨年のことでした。
思い出すままに綴った原稿は二百枚にも及び、
とりわけ強い関心を示したのが、
現在、芸能活動をしている娘の登紀子です。
「もっとディテールを克明に」と
深夜零時から聞き取りが始まり、
毎晩二時間近く尋問のようなやりとりが行われました。
ハルビンで生まれ、二歳半で引き揚げを体験した
娘にとっても格別の思いがあったのでしょう。
私がハルビンへ渡ったのは昭和十年、
主人と結婚した二十歳のことでした。
当時、ハルビンは日本と満州の支配下にあり、
故郷を追われたロシア人たちが過ごしていましたが、
神を信じ、誇り高く生きる彼らの生活には、
どこか美しいロシアの匂いが息づいていました。
世間体ばかりを気にする日本人に窮屈さを
感じていた私にとって、彼らの暮らしに対する憧れは強く、
ロシア人宅に間借りをして幸福な日々を過ごしていました。
しかしそんな生活も長くは続きません。
平和だったハルビンにも戦争の影が忍び寄ってきて、
主人は徴兵されていきました。
その頃生まれた赤ん坊に「世紀が登るように」と
"登紀子"と名づけたのは、そんな私たちが
未来に託した希望であったかもしれません。
戦局は日ごとに激しさを増していく中、
幼子三人を抱えたまま終戦を迎え、
私たちはトラックで収容所へ連行されました。
そこには七十名の婦人とその子どもたちがいましたが、
敗戦のショックからか、誰もが憔悴した表情を見せています。
まもなくするとソ連兵による略奪行為が始まり、
金めのものはすべて持ち去られたほか、
ラジオのコードを切断され、情報源を失いました。
いつ来るかもしれぬソ連兵に怯える日々が続きます。
ある朝、「ソ連兵が来たぞ! みんな外へ出てくださいっ」
という大きな声に慌てて外へ飛び出すと、
トラックに乗った大勢の兵隊たちが
門の垣根を越え建物に侵入してきます。
家財道具がみるみるうちに運び出されていくのが見えました。
日暮れ時に恐る恐る戻ってみると、
お金や食糧の隠してあった畳は引っ剥がされ、
辺りにはずたずたにされた襖や衣類が散乱しています。
女性たちの中には兵隊による強姦を恐れ、
「女」を見せまいと髪をくしゃくしゃにし、
顔を炭で汚す人もいました。
しかしそれでは人間扱いされるはずもありません。
ソ連兵も人間ならば、収容所にいるのも同じ人間。
ならば私は、人間としての尊厳を
相手に認めさせるしかないと思いました。
ある日、自動小銃を構えたソ連の将校が押しかけてきて
「武器があるか調べにきた」と尋ねます。
そのまま、ずかずかと上がってこようとする兵隊に、私は
「ここは私たちの眠る場所です。
畳の上を靴で歩かないでください」
と強い調子で言いました。
すると兵隊も馬鹿にした素振りは見せません。
こちらが毅然とした態度で振る舞えば、
相手もちゃんと敬意をもって接してくれることを、
この時身をもって知りました。
その後、人形作りや洋裁をして、
中国人やユダヤ人から賃金を得ていましたが、
やがて引き揚げ協定が成立し、
在留邦人による引き揚げが始まりました。
日本への船が出る錦州のコロ島まで、
ハルビンから実に八百キロの距離。
雨に吹きさらされる無蓋列車の旅で、
途中にある鉄橋が爆破され、
十二キロの距離を自分たちで歩かねばならないという
過酷な旅です。
私は食糧や衣類などをリュックに詰め込めるだけ詰め込み、
子どもたちには夏服の上に冬服を重ねて着せました。
夕刻に千人余りの日本人を乗せ走り始めた列車は
昼近くになって停車し、下車すると線路を伝う
長蛇の列ができていました。
長男と長女にリュックを背負わせ、
登紀子を胸に括りつけた私は、
後ろに重いリュックを背負いました。
思うように足が進まず、子どもたちの姿が
どんどん見えなくなっていきます。
肩にリュックの紐が食い込んで足がいうことを聞きません。
そこで登紀子を背中におぶることにし、
リュックを線路上に引きずって歩き出しましたが、
線路が切れて砂地になると、
リュックがめり込んで歩けません。
私は背負った登紀子を下ろし、厳しい調子でこう言いました。
「あんたが自分で歩かなければ死ぬことになるよ」
まだ二歳半だった登紀子にこの意味が
通じたかどうかは分かりません。
しかし登紀子は泣きもせず、
一歩一歩自分の足でゆっくりと歩き始めたのでした。
明日の命は分からないが、
とにかくきょうを生きている──。
その命の手応えが、私たちの生きる唯一の証しでした。
帰国後、主人が開いたロシア料理店の切り盛りに洋裁、
子育てとその日々は多忙と困難を極めましたが、
私は自分の生きる道を見失うことはありませんでした。
どんな状況に置かれても、周りの環境や情勢に流されず、
肝心なことは自分の頭で決める、
自分の足で歩くということの大切さを、
この身を通じて知っていたからです。
どれだけ時代は巡ろうと、人間の運命は
いまを生きる私たち自身の意志によって
切りひらかれていきます。
…………………………………………………………………………………
人間は、自分の意志の力こそ、命をつなぐ原点なのかもしれません。
致知出版社の「人間力メルマガ」から、転載します。今日の文に、私の意見は書きません。
(以下、転載)
「命の手応え」
加藤淑子(元レストラン「スンガリー」経営者)
……………………………………………………………………………………
わが郷愁の街、ハルビン──。
戦前、「極東のパリ」と呼ばれたこの美しい街と
そこに暮らした人々への愛と尊敬の気持ちは、
帰国から六十年の歳月が過ぎたいまも消えることはありません。
二十歳から十一年間を過ごした現地での生活を、
孫や曾孫たちのために残しておきたいと筆を執ったのは、
九十歳を迎えた昨年のことでした。
思い出すままに綴った原稿は二百枚にも及び、
とりわけ強い関心を示したのが、
現在、芸能活動をしている娘の登紀子です。
「もっとディテールを克明に」と
深夜零時から聞き取りが始まり、
毎晩二時間近く尋問のようなやりとりが行われました。
ハルビンで生まれ、二歳半で引き揚げを体験した
娘にとっても格別の思いがあったのでしょう。
私がハルビンへ渡ったのは昭和十年、
主人と結婚した二十歳のことでした。
当時、ハルビンは日本と満州の支配下にあり、
故郷を追われたロシア人たちが過ごしていましたが、
神を信じ、誇り高く生きる彼らの生活には、
どこか美しいロシアの匂いが息づいていました。
世間体ばかりを気にする日本人に窮屈さを
感じていた私にとって、彼らの暮らしに対する憧れは強く、
ロシア人宅に間借りをして幸福な日々を過ごしていました。
しかしそんな生活も長くは続きません。
平和だったハルビンにも戦争の影が忍び寄ってきて、
主人は徴兵されていきました。
その頃生まれた赤ん坊に「世紀が登るように」と
"登紀子"と名づけたのは、そんな私たちが
未来に託した希望であったかもしれません。
戦局は日ごとに激しさを増していく中、
幼子三人を抱えたまま終戦を迎え、
私たちはトラックで収容所へ連行されました。
そこには七十名の婦人とその子どもたちがいましたが、
敗戦のショックからか、誰もが憔悴した表情を見せています。
まもなくするとソ連兵による略奪行為が始まり、
金めのものはすべて持ち去られたほか、
ラジオのコードを切断され、情報源を失いました。
いつ来るかもしれぬソ連兵に怯える日々が続きます。
ある朝、「ソ連兵が来たぞ! みんな外へ出てくださいっ」
という大きな声に慌てて外へ飛び出すと、
トラックに乗った大勢の兵隊たちが
門の垣根を越え建物に侵入してきます。
家財道具がみるみるうちに運び出されていくのが見えました。
日暮れ時に恐る恐る戻ってみると、
お金や食糧の隠してあった畳は引っ剥がされ、
辺りにはずたずたにされた襖や衣類が散乱しています。
女性たちの中には兵隊による強姦を恐れ、
「女」を見せまいと髪をくしゃくしゃにし、
顔を炭で汚す人もいました。
しかしそれでは人間扱いされるはずもありません。
ソ連兵も人間ならば、収容所にいるのも同じ人間。
ならば私は、人間としての尊厳を
相手に認めさせるしかないと思いました。
ある日、自動小銃を構えたソ連の将校が押しかけてきて
「武器があるか調べにきた」と尋ねます。
そのまま、ずかずかと上がってこようとする兵隊に、私は
「ここは私たちの眠る場所です。
畳の上を靴で歩かないでください」
と強い調子で言いました。
すると兵隊も馬鹿にした素振りは見せません。
こちらが毅然とした態度で振る舞えば、
相手もちゃんと敬意をもって接してくれることを、
この時身をもって知りました。
その後、人形作りや洋裁をして、
中国人やユダヤ人から賃金を得ていましたが、
やがて引き揚げ協定が成立し、
在留邦人による引き揚げが始まりました。
日本への船が出る錦州のコロ島まで、
ハルビンから実に八百キロの距離。
雨に吹きさらされる無蓋列車の旅で、
途中にある鉄橋が爆破され、
十二キロの距離を自分たちで歩かねばならないという
過酷な旅です。
私は食糧や衣類などをリュックに詰め込めるだけ詰め込み、
子どもたちには夏服の上に冬服を重ねて着せました。
夕刻に千人余りの日本人を乗せ走り始めた列車は
昼近くになって停車し、下車すると線路を伝う
長蛇の列ができていました。
長男と長女にリュックを背負わせ、
登紀子を胸に括りつけた私は、
後ろに重いリュックを背負いました。
思うように足が進まず、子どもたちの姿が
どんどん見えなくなっていきます。
肩にリュックの紐が食い込んで足がいうことを聞きません。
そこで登紀子を背中におぶることにし、
リュックを線路上に引きずって歩き出しましたが、
線路が切れて砂地になると、
リュックがめり込んで歩けません。
私は背負った登紀子を下ろし、厳しい調子でこう言いました。
「あんたが自分で歩かなければ死ぬことになるよ」
まだ二歳半だった登紀子にこの意味が
通じたかどうかは分かりません。
しかし登紀子は泣きもせず、
一歩一歩自分の足でゆっくりと歩き始めたのでした。
明日の命は分からないが、
とにかくきょうを生きている──。
その命の手応えが、私たちの生きる唯一の証しでした。
帰国後、主人が開いたロシア料理店の切り盛りに洋裁、
子育てとその日々は多忙と困難を極めましたが、
私は自分の生きる道を見失うことはありませんでした。
どんな状況に置かれても、周りの環境や情勢に流されず、
肝心なことは自分の頭で決める、
自分の足で歩くということの大切さを、
この身を通じて知っていたからです。
どれだけ時代は巡ろうと、人間の運命は
いまを生きる私たち自身の意志によって
切りひらかれていきます。
…………………………………………………………………………………
人間は、自分の意志の力こそ、命をつなぐ原点なのかもしれません。