2011年02月20日

「一期一会」初めて会ったのフレッシュな出会いと別れを感じる

「一期一会」初めて会ったのフレッシュな出会いと別れを感じる

上杉鷹山について、童門冬二氏の講演記録から抜粋、これは童門氏とある禅僧との会話から、

(以下、転載)
 禅僧が、「一期一会をという言葉を知っているか」と聞くのです。「知っています」と答えると、
「どういう理解をしている?」
「一期というのは人が生まれてから死ぬまでの一生・生涯、一会というのはその一生にたった一度しか会えない人、あるいは機会、チャンス、こう理解しています」
「つまらんね。どっかの本で読んで真似しているだけじゃないか。そんなもんじゃないよ」
「ちがうんですか?」
「ちがう。朝、たとえば会社に言って、おはようございますと言った相手がどんな顔馴染みでお前の言う嫌いな相手であっても、そのとき初めてこの人と会ったんだというフレッシュな出会いを感じる。これが一つ・二つ目は夕暮れに仕事を終えて、さようなら、お疲れ様と言うとき、もう二度と会えないかもしれないと思いなさい。つまり朝はフレッシュな出会い、夕暮れの別れは緊張感をもった別れ。そして、緊張感を持った別れから逆算した朝のフレッシュな出会いという意識があれば、勤務中の八時間かそこらの間には必ずお前だって三通りに出会っていることが分かるはずだよ。
1.学べる人 2.語れる人 3.学ばせる人の三通りだ。
学べる人という師、語れる人というのは友(朋)、そして学ばせる人というのは後輩とか部下とか子どもとか、そういう人。しかもその関係は、固定的ではなくて始終移動する。たとえば今年採用したばかりの若い職員が職場で駆け込んできて、『出勤電車でこういう経験をしました。これは課長がかねてからおっしゃっていた、わが社の危機のケーススタディーになるんじゃないですか』と言ってお前を感心させたとすろ。この時の課長は、新規採用の社員を指導する立場ではなくて、教えを受ける立場になっている。上下関係がひっくり返っている。こんなことは、八時間の間にいろんなケースがあるだろう。それが本当の一期一会だよ」
と、こう言われました。そして、
「お前は考えがたりない。だから死ぬまで苦しみなさい」と、いうことでした。
 (以上、童門冬二講演会「今、平州先生に学ぶ」から抜粋)

師、友(朋)、後輩(部下)、の3つに分類される。

>1.学べる人 2.語れる人 3.学ばせる人の三通り。

>朝、たとえば会社に言って、おはようございますと言った相手がどんな顔馴染みでお前の言う嫌いな相手であっても、そのとき初めてこの人と会ったんだというフレッシュな出会いを感じる。これが一つ・二つ目は夕暮れに仕事を終えて、さようなら、お疲れ様と言うとき、もう二度と会えないかもしれないと思いなさい。

今回のお坊さんの教示は、心貫くものがあります。
謙虚、倹約、勤勉、そこから大きな展開が広がると思います。
成功するもしないも、結果がものをいう仕事と思います。

  


Posted by ノグチ(noguchi) at 17:07Comments(0)リーダーの名言

2011年02月20日

上杉鷹山の師細井平州私塾「嚶鳴(おうめい)館」と「父母の心」

上杉鷹山の師細井平州の私塾「嚶鳴(おうめい)館」と「父母の心」

 2月16日~18日まで、四国の愛媛県へ政務調査に行った。地産地消、演劇による地位文化活性化、ボートレースの場外船券売り場(ボートピア)、精神的を病(うつ病、引きこもり等)の改善を目指すNPO法人、松山市議と松前町議との意見交換、日本食研㈱本社の工場見学、等々、盛りだくさんの調査と意見交換を交わして来ました。
 愛媛は、江戸期に「伊予」地域と呼ぶでいました。江戸期に、大きな功績を残した伊予西条藩主から紀伊の徳川家の藩主になった、徳川治貞公の師である細井平州を思い出した。細井平州は、江戸後期の名君であり、経済の天才的な君の上杉鷹山の師であります。細井平州の人柄を表わした言葉に次の一節があります。

(本文)
「細井先生の講釈は、難しいことをわれわれの頭に合わせて易しく教えてくださる」
「世の学者には、易しいことをわざわざ難しくいって自分の利口ぶりを語る人が多いが、細井先生は違う。細井先生こそ、本当に頭がいいのだ。易しいことをわざわざ難しく語る学者は、本当は馬鹿なのだ」
 細井平州は、江戸の街頭に立って辻講釈を始めた。場所は人が沢山通る両国橋を選んだ。
 (以上、童門冬二著「上杉鷹山と細井平州」)

 上記の講演をする中で、少しづつ塾生も集まった来ました。その平州の人柄を表わすエピーソードがあります。童門冬二著の「上杉鷹山と細井平州」から抜粋します。

(本文)
 細井平州の師の中西淡淵(たんえん)が死んだ。まだ四十四才若さだった。平州は悲しんだ。師を失った多くの弟子たちは、「引き続き先生のところで学ばせて欲しい」と大挙して細井平州のところへやって来た。平州は受け入れた。このため、たちまち門人が増え、塾が狭くなった。そこで門人たちも心配して大増築を始めた。塾は、宝暦三年(1753年)に改築された。平州はこの塾に名前をつけた。
「嚶鳴(おうめい)館」
である。嚶鳴というのは、雌雄(メスオス)の鳥がオウオウと鳴き交わすことをいう。しかしこれは何も腹が減って餌を求めるわけでも、また愛を囁(ささ)いているわけではない。これが転じて、
「朋有が互いに切磋琢磨して、学問に励む」
という意味を持つようになった。
 (以上、童門冬二著「上杉鷹山と細井平州」)

嚶鳴(おうめい)館の生い立ちをご理解いただけましたでしょうか。
  


Posted by ノグチ(noguchi) at 08:43Comments(0)偉人