2009年03月09日
(『礼記』)「礼」と「和」のバランスが人間関係の出発点
(『礼記』)「礼」と「和」のバランスが人間関係の出発点
中国古典の『礼記』に次の一節がある。
「礼儀ノ初メハ、容体ヲ正シ、顔色ヲ斉(トトノ)エ、辞令ヲ順ニスルニ在リ」
これによると、「礼」の基本は、つぎの三つのことのようだ。
一、至誠や態度を正しくする
ニ、変な顔つきをしない
三、言葉遣いをきちんとする
つまり「礼」は、単にモラルの問題だけでなく、美意識の問題があるらしい。周りから見て、ああ、いいなあ、さわやかだな、という印象を与えるもの、それが「礼」なのだという。
・民主党の疑惑に思う報道と国民の言葉
ここ数日、民主党の小沢代表を筆頭に、民主党首脳の言葉、態度、行動(報道から)を見るに、上記の「礼」の三つの条件を思い出しました。日本は、中国文化圏の衛星文明の一つと思います。
孔子、孟子、老子、荘子、陽明学、等々、中国の応対辞令「礼と和」の影響を多大に受けていると思います。テレビ報道でも、講演の中身よりも、途中の態度や誤字、読み違えに注目したりします。
・政治は、歴史が顕彰する
党内の調和や、意見・異見でトップの信を問うようなニュース報道もります。政治は、ケネディの就任時の言葉ではないですが、『勇気』『判断力』『尊厳』『献身』の四つのテーマを現職時にどう実行したか、歴史が検証する」と声明としました。
現在のニュース報道、特にニュースキャスターの政治の認識(価値観は時代で変る)が、薄いように思います。今、自分を評価して欲しいという「てらい」があるように感じます。
それは置いといて「礼」は、ただの礼(儀式、習慣)だけにあらず、「孔子」、「孟子」の真の教示を、教育界、財界、特に政界の中枢に居る方々が、再認識をするべきではないかと思います。
*参考資料:守屋洋編著「『将たる器』の研究」~中国三千年の興亡にみる~
(追伸)
現在の行け行けドンドンの中国、日本の経済成長時に出した「公害」を出さないように、「礼」の精神が、東アジアに必要な気がしています。
中国古典の『礼記』に次の一節がある。
「礼儀ノ初メハ、容体ヲ正シ、顔色ヲ斉(トトノ)エ、辞令ヲ順ニスルニ在リ」
これによると、「礼」の基本は、つぎの三つのことのようだ。
一、至誠や態度を正しくする
ニ、変な顔つきをしない
三、言葉遣いをきちんとする
つまり「礼」は、単にモラルの問題だけでなく、美意識の問題があるらしい。周りから見て、ああ、いいなあ、さわやかだな、という印象を与えるもの、それが「礼」なのだという。
・民主党の疑惑に思う報道と国民の言葉
ここ数日、民主党の小沢代表を筆頭に、民主党首脳の言葉、態度、行動(報道から)を見るに、上記の「礼」の三つの条件を思い出しました。日本は、中国文化圏の衛星文明の一つと思います。
孔子、孟子、老子、荘子、陽明学、等々、中国の応対辞令「礼と和」の影響を多大に受けていると思います。テレビ報道でも、講演の中身よりも、途中の態度や誤字、読み違えに注目したりします。
・政治は、歴史が顕彰する
党内の調和や、意見・異見でトップの信を問うようなニュース報道もります。政治は、ケネディの就任時の言葉ではないですが、『勇気』『判断力』『尊厳』『献身』の四つのテーマを現職時にどう実行したか、歴史が検証する」と声明としました。
現在のニュース報道、特にニュースキャスターの政治の認識(価値観は時代で変る)が、薄いように思います。今、自分を評価して欲しいという「てらい」があるように感じます。
それは置いといて「礼」は、ただの礼(儀式、習慣)だけにあらず、「孔子」、「孟子」の真の教示を、教育界、財界、特に政界の中枢に居る方々が、再認識をするべきではないかと思います。
*参考資料:守屋洋編著「『将たる器』の研究」~中国三千年の興亡にみる~
(追伸)
現在の行け行けドンドンの中国、日本の経済成長時に出した「公害」を出さないように、「礼」の精神が、東アジアに必要な気がしています。
<浩然の気>人の上に立ってこそ、自らの力量(徳)を理解する。〜『大学』より〜
<和光同塵>しぶとく生きる雑草の精神、どんな乱世でも生き抜いていく。〜『老子』〜
<仁とは、恭•寛•信•敏•惠なり>子張仁を孔子に問う。孔子曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為す。〜論語〜
<見習う教師、反面教師>どんな人からでも学ぶことができる。
<社会というより世間>身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の初めなり。〜孝経〜
自らの生きる芯(誠)を、磨き鍛え、前進せねばと思う。〜孔子の最後の訓示から〜
<和光同塵>しぶとく生きる雑草の精神、どんな乱世でも生き抜いていく。〜『老子』〜
<仁とは、恭•寛•信•敏•惠なり>子張仁を孔子に問う。孔子曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為す。〜論語〜
<見習う教師、反面教師>どんな人からでも学ぶことができる。
<社会というより世間>身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の初めなり。〜孝経〜
自らの生きる芯(誠)を、磨き鍛え、前進せねばと思う。〜孔子の最後の訓示から〜
Posted by ノグチ(noguchi) at 23:03│Comments(1)
│孔子の教え
この記事へのコメント
阿蘇では 敬語の使い方が なっていない。
私がいくと、「●●先生が来た」という。目の前にいるのに、来たはないだろう、というのであるが直らない。やはり、人を大事に考えないからとおもう。「理事長が来ても、君たちはそういう言葉を使うか」、と反論するのだが。
Ichiro
私がいくと、「●●先生が来た」という。目の前にいるのに、来たはないだろう、というのであるが直らない。やはり、人を大事に考えないからとおもう。「理事長が来ても、君たちはそういう言葉を使うか」、と反論するのだが。
Ichiro
Posted by Ichiro at 2009年03月10日 19:49