2010年05月27日
「道縁無窮」、孔子はどんな人だったのでしょうか?
「道縁無窮」、孔子はどんな人だったのでしょうか?
孔子先生は、どんな人だったのでしょうか。孔子自ら、論語の中で語っています。下記の一節です。
「憤を発しては食を忘れ、楽しんでは以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ」
意味は、「(孔子先生は、)道を求めて得られないときには、自分にたいしていきどおり起こして食事を忘れ、道を会得して楽しんでいるときは心配事も忘れ、そこまで老いが迫っているのも気づかないような人だ」
宇土論語教室の塾長が「道縁無窮」という言葉を使われます。
「道縁」とは、人の道を学ぶ師友の縁。
「無窮」とは、限りないとは、無限とかの意味です。
論語を学び、人の道を求める学問で出会う人は、とても多く、その縁は限りなく続くという意味だそうです。
良心、良識、あるいは中庸とか、人の心の到達点を表現しますが、人間、様々な要因から、私欲が沸き上がり、周りへ様々な影響を与えます。
独り、自分のことを考える時間は、とても重要ですが、考え進む方向が、正しい人の道かはなかなか判断が着かないことも多々あります。人は、悩み、考えて成長するといいます。無関心、無感動では、人の成長は無いと思います。
自分を振り返り、人の道に合っているか、常に考え、「合点」したときは、われを忘れて喜び、勇んで良いのではなかと思います。
>道を会得して楽しんでいるときは心配事も忘れ
そんな心境に、いつか辿り着きたいものです。
*参考資用:「仮名論語」
孔子先生は、どんな人だったのでしょうか。孔子自ら、論語の中で語っています。下記の一節です。
「憤を発しては食を忘れ、楽しんでは以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ」
意味は、「(孔子先生は、)道を求めて得られないときには、自分にたいしていきどおり起こして食事を忘れ、道を会得して楽しんでいるときは心配事も忘れ、そこまで老いが迫っているのも気づかないような人だ」
宇土論語教室の塾長が「道縁無窮」という言葉を使われます。
「道縁」とは、人の道を学ぶ師友の縁。
「無窮」とは、限りないとは、無限とかの意味です。
論語を学び、人の道を求める学問で出会う人は、とても多く、その縁は限りなく続くという意味だそうです。
良心、良識、あるいは中庸とか、人の心の到達点を表現しますが、人間、様々な要因から、私欲が沸き上がり、周りへ様々な影響を与えます。
独り、自分のことを考える時間は、とても重要ですが、考え進む方向が、正しい人の道かはなかなか判断が着かないことも多々あります。人は、悩み、考えて成長するといいます。無関心、無感動では、人の成長は無いと思います。
自分を振り返り、人の道に合っているか、常に考え、「合点」したときは、われを忘れて喜び、勇んで良いのではなかと思います。
>道を会得して楽しんでいるときは心配事も忘れ
そんな心境に、いつか辿り着きたいものです。
*参考資用:「仮名論語」
<浩然の気>人の上に立ってこそ、自らの力量(徳)を理解する。〜『大学』より〜
<和光同塵>しぶとく生きる雑草の精神、どんな乱世でも生き抜いていく。〜『老子』〜
<仁とは、恭•寛•信•敏•惠なり>子張仁を孔子に問う。孔子曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為す。〜論語〜
<見習う教師、反面教師>どんな人からでも学ぶことができる。
<社会というより世間>身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の初めなり。〜孝経〜
自らの生きる芯(誠)を、磨き鍛え、前進せねばと思う。〜孔子の最後の訓示から〜
<和光同塵>しぶとく生きる雑草の精神、どんな乱世でも生き抜いていく。〜『老子』〜
<仁とは、恭•寛•信•敏•惠なり>子張仁を孔子に問う。孔子曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為す。〜論語〜
<見習う教師、反面教師>どんな人からでも学ぶことができる。
<社会というより世間>身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の初めなり。〜孝経〜
自らの生きる芯(誠)を、磨き鍛え、前進せねばと思う。〜孔子の最後の訓示から〜
Posted by ノグチ(noguchi) at 08:42│Comments(0)
│孔子の教え