2016年08月17日
人生に対する精神態度というものが、人生を幸福にも、かつまた不幸なものにもする。〜中村天風〜
人生に対する精神態度というものが、人生を幸福にも、かつまた不幸なものにもする。〜中村天風〜
おはようございます。
朝から、天風哲学『叡智のひびき』の言葉を読んでみました。
「真の幸福というものは富とか地位とかというようなもので、現実にこれをあがない得べきものではない。しょせん、一にも二にも、心の力がこれを解決するものである」
この文の見出しは以下の教示で始まっています。
「他人の気持ちや言葉又は事件や病いという様なものに心を脅かされたり圧倒される人があるとしたら心身相関の真理を正しく理解せぬ人である」
心身相関ということを、日常の人生生活を営む際に、少し注意すると、何人といえども体験していることである、と。
様々な出来事、様々な人々と対面し、この心身相関の視点でその出来事や人々を視るとき、自分の理性や感情から考えるのが普通です。
しかし、天風先生は、自らの本心良心を大事にして、その出来事や人と相対することが大事と語っておられます。
「理性や感情は理智に相対し、理智は教養と経験に相対する。然し本心良心は徹頭徹尾絶対である」
自らの心から沸き起こる“気持ち(想い)“がもっとも大切と語られいます。
「他人の言葉や行為に自分の心を影響させたり、同化されたりして、あるいは不愉快になったり、あるいは不機嫌になったりする人がある。(中略)
もっと滑稽な人になると、人に親切にしてやって、相手がその親切に感じないと、盛んに憤る人がある。(中略)
したがって、自分の人生はあくまでも、自分自身がこれを完膚なきまで護り抜いていくべきである。(中略)
Heaven helps those who help themselves.(天は自ら助くる者を助く)」
(以上、『叡智のひびき』より)
人間は、人と関わることがなければ、実際生きていけないし、生きた価値もないと思います。日常行動は、それぞれの価値観(私利私欲が中心)で動いています。しかし、自分の行動を、少し離れた視点で検証してみると、私利私欲ばかりで動いていないことに気づきます。
特に災害等が発生すると、ある人の事が気になって、“居ても立っても居られない”気持ちが起こります。これこそ本心良心ではないでしょうか。理性や感情を超える心の有り様“本心”を大切にして生きなければと思います。
危機に直面したときこそ、この本心を知る良き機会のように思います。しかし、地震、水害、何度も起きて欲しくない自然災害です。
ぼちぼち、今日も行動開始です。
*参考資料:中村天風著『叡智のひびき』
おはようございます。
朝から、天風哲学『叡智のひびき』の言葉を読んでみました。
「真の幸福というものは富とか地位とかというようなもので、現実にこれをあがない得べきものではない。しょせん、一にも二にも、心の力がこれを解決するものである」
この文の見出しは以下の教示で始まっています。
「他人の気持ちや言葉又は事件や病いという様なものに心を脅かされたり圧倒される人があるとしたら心身相関の真理を正しく理解せぬ人である」
心身相関ということを、日常の人生生活を営む際に、少し注意すると、何人といえども体験していることである、と。
様々な出来事、様々な人々と対面し、この心身相関の視点でその出来事や人々を視るとき、自分の理性や感情から考えるのが普通です。
しかし、天風先生は、自らの本心良心を大事にして、その出来事や人と相対することが大事と語っておられます。
「理性や感情は理智に相対し、理智は教養と経験に相対する。然し本心良心は徹頭徹尾絶対である」
自らの心から沸き起こる“気持ち(想い)“がもっとも大切と語られいます。
「他人の言葉や行為に自分の心を影響させたり、同化されたりして、あるいは不愉快になったり、あるいは不機嫌になったりする人がある。(中略)
もっと滑稽な人になると、人に親切にしてやって、相手がその親切に感じないと、盛んに憤る人がある。(中略)
したがって、自分の人生はあくまでも、自分自身がこれを完膚なきまで護り抜いていくべきである。(中略)
Heaven helps those who help themselves.(天は自ら助くる者を助く)」
(以上、『叡智のひびき』より)
人間は、人と関わることがなければ、実際生きていけないし、生きた価値もないと思います。日常行動は、それぞれの価値観(私利私欲が中心)で動いています。しかし、自分の行動を、少し離れた視点で検証してみると、私利私欲ばかりで動いていないことに気づきます。
特に災害等が発生すると、ある人の事が気になって、“居ても立っても居られない”気持ちが起こります。これこそ本心良心ではないでしょうか。理性や感情を超える心の有り様“本心”を大切にして生きなければと思います。
危機に直面したときこそ、この本心を知る良き機会のように思います。しかし、地震、水害、何度も起きて欲しくない自然災害です。
ぼちぼち、今日も行動開始です。
*参考資料:中村天風著『叡智のひびき』
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05:46
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2016年08月17日
自分はどうあるべきか、を常々考えているか?
自分はどうあるべきか、を常々考えているか?
日々走り回っていると“自分を忘れる”ことが多々生じる。その多くが、周りの対応に四苦八苦していると、我を忘れていることも多い。
我を忘れる。自分を忘れる。
日々の暮らしの中で、自らの言動を検証(反省)している時間を持っているか?
毎日、役割を果たすだけに走り回り、その行為に心がこもっているか?
そんな時に、天風哲学に触れると、“ハッと気づく”のです。本日も、朝の読書は、中村天風著『叡智のひびき』です。
(以下、教示を転載)
油断をするといつしか「誓」の言葉を空文にして活きて居る事があるから十分気をつけねばならない。
【解説文】
もっと詳しくいうなら・・、今日一日の人生を、できるだけ尊く、清く、活きぬくことを心がけていたのに、ひょいと気づいてみると、いつしか消極的の感情のとりことなり、あるいは怒り、あるいは悲しみ、あるいは恐れまたは憎む、悩むという気持ちになっている自分を発見するというようなことです。
(以上、本より抜粋)
要は、生きる目的が“ピンボケ”しているのです。日々の生活に、心(魂)がこもっているか。
天風哲学からの言葉を借りると、「油断するな、気を入れて、自らの行動を実践すること」なのだと思います。
日々走り回っていると“自分を忘れる”ことが多々生じる。その多くが、周りの対応に四苦八苦していると、我を忘れていることも多い。
我を忘れる。自分を忘れる。
日々の暮らしの中で、自らの言動を検証(反省)している時間を持っているか?
毎日、役割を果たすだけに走り回り、その行為に心がこもっているか?
そんな時に、天風哲学に触れると、“ハッと気づく”のです。本日も、朝の読書は、中村天風著『叡智のひびき』です。
(以下、教示を転載)
油断をするといつしか「誓」の言葉を空文にして活きて居る事があるから十分気をつけねばならない。
【解説文】
もっと詳しくいうなら・・、今日一日の人生を、できるだけ尊く、清く、活きぬくことを心がけていたのに、ひょいと気づいてみると、いつしか消極的の感情のとりことなり、あるいは怒り、あるいは悲しみ、あるいは恐れまたは憎む、悩むという気持ちになっている自分を発見するというようなことです。
(以上、本より抜粋)
要は、生きる目的が“ピンボケ”しているのです。日々の生活に、心(魂)がこもっているか。
天風哲学からの言葉を借りると、「油断するな、気を入れて、自らの行動を実践すること」なのだと思います。
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2016年08月17日
心は平らに、気は安らかに〜佐藤一斎〜
心は平らに、気は安らかに〜佐藤一斎〜
『佐藤一斎一日一言』の本日の言葉
(以下、転載)
心は平らに、気は安らかに
心は平らなるを要す。平らなれば則ち定まる。
気は易なるを要す。易なれば則ち直し。
【現代語訳】
心穏やかで落ち着いていることが大切である。心が平安であれば、自然に心は治まる。同様に、気持ちが安定していることが大事である。気が安らかにであれば、何事もまっすぐ行われる。
(補足)『菜根譚』には「心和して気平らかなる者には百福自ら集まる」とある。
(以上、『佐藤一斎一日一言』6月28日より)
今日も、結構詰まった日程ですが、「心は平らに、気は安らかに」保ち、時間を有効に使えるように動きたいと思います。
『佐藤一斎一日一言』の本日の言葉
(以下、転載)
心は平らに、気は安らかに
心は平らなるを要す。平らなれば則ち定まる。
気は易なるを要す。易なれば則ち直し。
【現代語訳】
心穏やかで落ち着いていることが大切である。心が平安であれば、自然に心は治まる。同様に、気持ちが安定していることが大事である。気が安らかにであれば、何事もまっすぐ行われる。
(補足)『菜根譚』には「心和して気平らかなる者には百福自ら集まる」とある。
(以上、『佐藤一斎一日一言』6月28日より)
今日も、結構詰まった日程ですが、「心は平らに、気は安らかに」保ち、時間を有効に使えるように動きたいと思います。
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2016年08月17日
<三勿三行>これからは正直が企業の目標となる。
<三勿三行>これからは正直が企業の目標となる。
長く指導を受ける東京の環境活動家で、元電気メーカーのアメリカ支社長を長く勤められた木内孝氏から、数年前に「野口さん、これからは正直が企業の目標となる」と語られたことを思い出しました。
最近、ヴォルクスワーゲン、三菱自動車、スズキ自動車は、エンジン性能のデータ改ざんで、苦境に立っている。
正直でない企業の内部事情は、いつか手のひらの指から水がこぼれ落ちるように、真実が流れ出す。
今朝の読書は、中村天風著『叡智のひびき』の最後の言葉を読みました。
「人生は現在只今を尊く活きることである。それには理屈なしに三勿三行を専念厳守するべきである」
三勿とは、
怒らず、怖れず、悲まず
三行とは、
正直、親切、愉快
木内孝氏の父・故木内信胤氏の晩年を言葉を集めたサイトがあります。陽明学者の深澤賢治氏が、木内信胤氏が語るのを聞きまとめたものです。
その木内信胤氏の言葉に、「私は、自分で考える。解るまで考える」とありました。上文の天風先生の言葉とは関係ないようですが、自らの智慧を働かせ情報を集め、自らの心で判断をする。情報集めも他人任せにせず、自ら動き、人間関係も構築していくことが重要とおもいます。
解るまでは、「怒らず」「怖れず」「悲まず」「正直」「親切」「愉快」の三勿三行に心がけると、難題、難問もいつしか、関わり合うさざまな人のご縁が、解決の糸口を導き出すのだと思います。
長く指導を受ける東京の環境活動家で、元電気メーカーのアメリカ支社長を長く勤められた木内孝氏から、数年前に「野口さん、これからは正直が企業の目標となる」と語られたことを思い出しました。
最近、ヴォルクスワーゲン、三菱自動車、スズキ自動車は、エンジン性能のデータ改ざんで、苦境に立っている。
正直でない企業の内部事情は、いつか手のひらの指から水がこぼれ落ちるように、真実が流れ出す。
今朝の読書は、中村天風著『叡智のひびき』の最後の言葉を読みました。
「人生は現在只今を尊く活きることである。それには理屈なしに三勿三行を専念厳守するべきである」
三勿とは、
怒らず、怖れず、悲まず
三行とは、
正直、親切、愉快
木内孝氏の父・故木内信胤氏の晩年を言葉を集めたサイトがあります。陽明学者の深澤賢治氏が、木内信胤氏が語るのを聞きまとめたものです。
その木内信胤氏の言葉に、「私は、自分で考える。解るまで考える」とありました。上文の天風先生の言葉とは関係ないようですが、自らの智慧を働かせ情報を集め、自らの心で判断をする。情報集めも他人任せにせず、自ら動き、人間関係も構築していくことが重要とおもいます。
解るまでは、「怒らず」「怖れず」「悲まず」「正直」「親切」「愉快」の三勿三行に心がけると、難題、難問もいつしか、関わり合うさざまな人のご縁が、解決の糸口を導き出すのだと思います。
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05:42
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2016年08月17日
大地の徳〜安岡正篤〜
大地の徳〜安岡正篤〜
地震、雷、火事、親父、なる怖さの順? のフレーズがありますが、地震の怖さも過ぎれば、だんだんと薄れていくのでしょう。今は、家の前を覆い尽くし泥水が記憶に新しい恐怖感を思い出します。
その被害を出す、山、川、海、空、どれもこれも、大地からできていて、被害もまた大地からの災害です。しかし、この大地の恵みで、人も生物も生かされているのも事実です。
安岡正篤の訓示録『安岡正篤一日一言』の7月1日の訓示を紹介します。
「大地の徳」
偉くなることは、必ずしも富士山のように仰がれるあようになるためではない。なるほど富士山は立派だけれども、それよりも何よりも立派なものは大地である。この大地は万山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せて敢えていとわない。常に平々坦々としておる。この大地こそ本当の徳である。われわれもこの大地のような徳を持たなければならぬ、大地のような人間にならなければならぬ。
(以上、本より転載)
大地とは、人への恩恵も恵むが、恐怖を強いるし、命も奪うこともある。人間はなんでもできる奢りを省みて、安心安全な生活を送るには、どう大地(自然)と付き合うかも考える必要がある。今回の地震被害や水害に逢い、おおいに自然の脅威に対して、できうる限りの予防策も考え準備することが必要と思います。
地震、雷、火事、親父、なる怖さの順? のフレーズがありますが、地震の怖さも過ぎれば、だんだんと薄れていくのでしょう。今は、家の前を覆い尽くし泥水が記憶に新しい恐怖感を思い出します。
その被害を出す、山、川、海、空、どれもこれも、大地からできていて、被害もまた大地からの災害です。しかし、この大地の恵みで、人も生物も生かされているのも事実です。
安岡正篤の訓示録『安岡正篤一日一言』の7月1日の訓示を紹介します。
「大地の徳」
偉くなることは、必ずしも富士山のように仰がれるあようになるためではない。なるほど富士山は立派だけれども、それよりも何よりも立派なものは大地である。この大地は万山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せて敢えていとわない。常に平々坦々としておる。この大地こそ本当の徳である。われわれもこの大地のような徳を持たなければならぬ、大地のような人間にならなければならぬ。
(以上、本より転載)
大地とは、人への恩恵も恵むが、恐怖を強いるし、命も奪うこともある。人間はなんでもできる奢りを省みて、安心安全な生活を送るには、どう大地(自然)と付き合うかも考える必要がある。今回の地震被害や水害に逢い、おおいに自然の脅威に対して、できうる限りの予防策も考え準備することが必要と思います。
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05:40
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2016年08月17日
心の修養~安岡正篤~
心の修養~安岡正篤~
(以下、『安岡正篤一日一言』より)
世の中にはさまざまな職業の人がいるが、大事なのは各人それぞれが正業に就き、自分の心身をみがいて仕事に最高の努力をしていくことだ。一人ひとりの心の修養こそ大事である。
(以上、本より転載)
いかに与えられたいるか?
日々のを大切にしているか?
心の修養は、充実がベースにあると思います。
(以下、『安岡正篤一日一言』より)
世の中にはさまざまな職業の人がいるが、大事なのは各人それぞれが正業に就き、自分の心身をみがいて仕事に最高の努力をしていくことだ。一人ひとりの心の修養こそ大事である。
(以上、本より転載)
いかに与えられたいるか?
日々のを大切にしているか?
心の修養は、充実がベースにあると思います。
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05:39
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2016年08月17日
本の流し読みは禁物、魂を入れて読む。
本の流し読みは禁物、魂を入れて読む。
有感 〜山崎闇斎〜
坐憶天公洗世塵
雨過四望更清新
光風斉月今猶在
唯欠胸中酒落人.
そぞろに憶(おも) ふ天公 世塵(せじん)を洗ふを
雨過ぎて四望更に清新
光風霽月(せいげつ)今猶(な)ほ 在り
ただ缺(か)く胸中洒落(しゃらく)の人.
【現代風に訳す】
一雨サーっと過ぎた後、四方の眺めは一段と清新である。雨の後の青葉をゆるがす風と、塵を一洗した空の月は文字通り光風霽月で、今も在るがさてそんな心の人に至っては、当今、さっぱり見当たらぬ。
(以上、『安岡正篤一日一言』6月10日の訓示より)
6月10日は私の誕生日、実は『安岡正篤一日一言』は事あるごとに読む本ですが、私の誕生日の訓示が記憶に無いということは、読むには読むが、魂を入れて読んでいない、と気づかされます。
山崎闇斎は、江戸時代の儒学や新道では、語らぬ者はない、と言われる人物。その本人が詠んだ七言絶句です。
『安岡正篤一日一言』の6月15日の訓示が、次の文です。
(以下、本より転載)
読書はただ読むだけでは駄目で、読みながらその本を自己内部で賦活(ふかつ)する必要がある。これを活読という。読みっぱなしならば、むしろ本に読まれていることになる。
*(注1)
【賦活】ふかつ:活力を与えること。物質の機能・作用を活発化 すること。「―体」。
(以上、『安岡正篤一日一言』より)
読書について、魂を入れてない読書なことを「本から読まれている」の表現は、さすがに安岡正篤流の表現ですが、何度も読み返す『安岡正篤一日一言』だが、魂を入れて真剣に読むことを、後半生が身近くなってきた私の今後の課題のように思います。
有感 〜山崎闇斎〜
坐憶天公洗世塵
雨過四望更清新
光風斉月今猶在
唯欠胸中酒落人.
そぞろに憶(おも) ふ天公 世塵(せじん)を洗ふを
雨過ぎて四望更に清新
光風霽月(せいげつ)今猶(な)ほ 在り
ただ缺(か)く胸中洒落(しゃらく)の人.
【現代風に訳す】
一雨サーっと過ぎた後、四方の眺めは一段と清新である。雨の後の青葉をゆるがす風と、塵を一洗した空の月は文字通り光風霽月で、今も在るがさてそんな心の人に至っては、当今、さっぱり見当たらぬ。
(以上、『安岡正篤一日一言』6月10日の訓示より)
6月10日は私の誕生日、実は『安岡正篤一日一言』は事あるごとに読む本ですが、私の誕生日の訓示が記憶に無いということは、読むには読むが、魂を入れて読んでいない、と気づかされます。
山崎闇斎は、江戸時代の儒学や新道では、語らぬ者はない、と言われる人物。その本人が詠んだ七言絶句です。
『安岡正篤一日一言』の6月15日の訓示が、次の文です。
(以下、本より転載)
読書はただ読むだけでは駄目で、読みながらその本を自己内部で賦活(ふかつ)する必要がある。これを活読という。読みっぱなしならば、むしろ本に読まれていることになる。
*(注1)
【賦活】ふかつ:活力を与えること。物質の機能・作用を活発化 すること。「―体」。
(以上、『安岡正篤一日一言』より)
読書について、魂を入れてない読書なことを「本から読まれている」の表現は、さすがに安岡正篤流の表現ですが、何度も読み返す『安岡正篤一日一言』だが、魂を入れて真剣に読むことを、後半生が身近くなってきた私の今後の課題のように思います。
Posted by ノグチ(noguchi) at
05:37
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